浮世絵
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また、欧化政策によって冷や飯を食わされていた狩野芳崖橋本雅邦らは、文部官僚の岡倉天心と、政治学・哲学のお雇い教師 として来日したが、その後日本美術に開眼し、天心と行動を共にするアーネスト・フェノロサの、洋画と南画を排斥した、新しい絵画[注釈 24]を生み出す主張に同調する[129]

その時代に注目されたのが、菊池容斎の『前賢故実』(全10冊。天保14年-明治元年・1843年-68年)である。神武天皇から南朝時代後亀山天皇時代までの公家・貴族・僧・武士・女房ら571人の故実と、彼らに見合う装束と顔貌を見開き一丁(2ページ)に描いたもので、明治10年代以降、画家の「粉本」[注釈 25]として盛んに引用される。浮世絵師を含む在来画家に限らず、洋画家も『前賢故実』を参照して描くことになる[130][131]

日清・日露戦争後、新聞雑誌石版画写真絵葉書が普及し、浮世絵師は、挿絵画家などへの転向を余儀なくされる[132]。明治40年(1907年)10月4日朝刊の朝日新聞「錦絵問屋の昨今」には、「江戸名物の一に数へられし錦絵は近年見る影もなく衰微し(略)写真術行はれ、コロタイプ版起り殊に近来は絵葉書流行し錦絵の似顔絵は見る能はず昨今は書く者も無ければ彫る人もなし」とある[133]鏑木清方は、かろうじて大正時代まで絵草紙屋があったと語る[134]山村耕花「『梨園の華』より、十三世守田勘弥のジャン・バルジャン」、1921年。

逆風のなか渡辺庄三郎は、1905年(明治38年)に摺師と彫師を雇用して、版元を興す。当初は古版木摺り、及び良質な摺り物からの版木起こしと、復刻品だけだったが、大正に入り、絵師と交渉して、新版画を制作するようになる。橋口五葉伊東深水川瀬巴水山村耕花らを起用し、また彼らも木版画による表現に刺激を受けた。

1923年(大正12年)、関東大震災 によって、渡辺も壊滅的な被害を負い、多くの版元が廃業に追い込まれた。しかし彼は再起し、渡米経験のある吉田博を起用、欧米で売れる作品を版行した。渡辺は昭和37年(1962年)に亡くなる[135][136][出典無効]が、彼の版元は21世紀でも健在である[137]。また、アダチ版画研究所も同様の制作・営業を行っている[138]
浮世絵の画題「:Category:浮世絵の種類」も参照

大久保(1994)[139]を参考に、区分する。そこに記載されていない「死絵」「長崎絵」「歴史画」「おもちゃ絵」を追加した。大久保(1994)以外の文献を用いた場合は、注を付す。死絵。八代目市川團十郎。1854年。涅槃図見立て。32歳で自死し、約300種の死絵があるとされる。[140]
美人画
成人女性を描いたもので、遊女や茶屋の看板娘が多く描かれた。
見立絵
和漢の故事や謡曲の場面を当世装束に当てはめて描いたもの。和歌や漢詩は記されても、細かな説明はない。
春画
枕絵とも呼ぶ。男女(同性同士もある)の営みを描いたもの。非合法であり、絵草紙屋(書店)に並ぶことはなく、富裕層が肉筆画を注文したりした。
役者絵
歌舞伎の人気役者や上演場面を公演ごとに描いたもの。
死絵
人気役者が亡くなった時、報道を兼ねて出されたもの。歌川広重歌川国貞のものもある[141][142]
名所絵
明治以降の、画家が良いと思った所ではなく、人々に広く知られたところを描いた。絵師は取材せずに、既にある絵から写したものが多い。
浮絵
蘭書の挿絵を見た絵師が、そこでの線遠近法を誇張して建造物等を描いたもの。相撲絵。写楽「大童山土俵入」1794年。取組はしない見世物の肥満少年。
花鳥画
主要画題ではなかったが、喜多川歌麿・葛飾北斎・歌川広重・小林清親らが質の高い作品を残した。
武者絵
故実だけでなく、当世事情を織豊期以前の武将に当てはめ(直接表現はご法度だった)、ひそかに幕府批判をする例があった。
戯画
葛飾北斎『北斎漫画』の他に、歌川国芳が得意とした。浮世絵#江戸後期参照。
相撲絵
力士や土俵入り、取り組みを描いたもの。役者絵同様、興行ごとに新作が出る。
長崎絵
蘭船や出島でのカピタンや唐人、彼らの風習を描いた。一枚絵は合羽摺が多く、長崎の版元から売り出された[143]


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