浮世絵
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明治5年(1872年)には、新橋-横浜間に鉄道が開通し[注釈 23]日本橋周辺に、木造に石材を併用し、2階建て以上、バルコニー付きの「擬洋風建築」が建てられてゆく[119]。それに人力車馬車ガス燈など、東京の変遷ぶりを描いたのが「開化絵」である。三代広重や、国輝らの歌川派が代表例で、「洋紅」を多用した、どぎつい色調のものが多い[120][121][122][123]月岡芳年・春亭「美談武者八景 洞院の秋月」。

小林清親は、下級武士として、将軍家茂・慶喜に従い、鳥羽・伏見の戦いに加わり、旧幕府敗北後、謹慎する慶喜に従い、静岡へ。明治7年(1874年)、東京に戻り、絵師として立つ。光を意識した東京名所図を描き、「光線画」と呼ばれる。都市を描く点では「開化絵」の要素もあるが、絵師ごとの個性が乏しいそれとは、物の見方や色使いが異なる[124][125]菊池容斎『前賢故実』巻6「藤原朝臣保昌」[126]

幕末に血みどろ絵を描いた月岡(大蘇)芳年は、明治10年代半ばになると、「歴史画」に注力する。

開国・新政府成立により、欧化政策が勧められ、明治9年(1876年)には、工部省が「工部美術学校」を設立し、イタリア人画家・彫刻家・建築家を招聘する。しかし政府は、輸出品として、ヨーロッパの真似ではなく、在来の工芸品の方が売れることを認識する。そして、国内体制を強固にするには、天皇の権威を高め、「国史」の重要性を認識し、歴史画が尊ばれることとなる。また、欧化政策によって冷や飯を食わされていた狩野芳崖橋本雅邦らは、文部官僚の岡倉天心と、政治学・哲学のお雇い教師 として来日したが、その後日本美術に開眼し、天心と行動を共にするアーネスト・フェノロサの、洋画と南画を排斥した、新しい絵画[注釈 24]を生み出す主張に同調する[129]

その時代に注目されたのが、菊池容斎の『前賢故実』(全10冊。天保14年-明治元年・1843年-68年)である。神武天皇から南朝時代後亀山天皇時代までの公家・貴族・僧・武士・女房ら571人の故実と、彼らに見合う装束と顔貌を見開き一丁(2ページ)に描いたもので、明治10年代以降、画家の「粉本」[注釈 25]として盛んに引用される。浮世絵師を含む在来画家に限らず、洋画家も『前賢故実』を参照して描くことになる[130][131]

日清・日露戦争後、新聞雑誌石版画写真絵葉書が普及し、浮世絵師は、挿絵画家などへの転向を余儀なくされる[132]。明治40年(1907年)10月4日朝刊の朝日新聞「錦絵問屋の昨今」には、「江戸名物の一に数へられし錦絵は近年見る影もなく衰微し(略)写真術行はれ、コロタイプ版起り殊に近来は絵葉書流行し錦絵の似顔絵は見る能はず昨今は書く者も無ければ彫る人もなし」とある[133]鏑木清方は、かろうじて大正時代まで絵草紙屋があったと語る[134]山村耕花「『梨園の華』より、十三世守田勘弥のジャン・バルジャン」、1921年。

逆風のなか渡辺庄三郎は、1905年(明治38年)に摺師と彫師を雇用して、版元を興す。当初は古版木摺り、及び良質な摺り物からの版木起こしと、復刻品だけだったが、大正に入り、絵師と交渉して、新版画を制作するようになる。橋口五葉伊東深水川瀬巴水山村耕花らを起用し、また彼らも木版画による表現に刺激を受けた。

1923年(大正12年)、関東大震災 によって、渡辺も壊滅的な被害を負い、多くの版元が廃業に追い込まれた。しかし彼は再起し、渡米経験のある吉田博を起用、欧米で売れる作品を版行した。渡辺は昭和37年(1962年)に亡くなる[135][136][出典無効]が、彼の版元は21世紀でも健在である[137]。また、アダチ版画研究所も同様の制作・営業を行っている[138]
浮世絵の画題「:Category:浮世絵の種類」も参照

大久保(1994)[139]を参考に、区分する。


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