浮世絵
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遠近法は、奥村らによる浮絵を生むこととなる[48][49]
江戸中期鈴木春信「坐敷八景 塗桶の暮雪」、1766年。

明和元年(1764年)、旗本など趣味人の間で絵暦交換会が流行した。彼らの需要に応えたのが鈴木春信である。彼らの金に糸目をつけない姿勢が、多色(7・8色)摺り版画を生みだすこととなった。錦のような美しい色合いから「錦絵」(東・吾妻錦絵)と呼ばれる[50][51][49]。上述の奥村政信らが、重ね摺りの際、ずれを防止する目印、「見当」を考案したことと、高価で丈夫な越前奉書紙が用いられたことが、錦絵を生み出す要因となった[52][53][50]

春信の錦絵は、絵暦以外でも、和歌狂歌 、『源氏物語』『伊勢物語』『平家物語』などの物語文学を、当世風俗画に当てはめて描く「見立絵」が多く、教養人でないと、春信の意図が理解できなかった。高価格[注釈 13]摺物[56]であり、ユニセックスな人物描写も含め、庶民を購入対象としていなかった[注釈 14]

墨の代わりに露草等の染料を用いた「水絵」(みずえ)が、明和年間初頭に流行り、春信らの作品が残るが、現存する作品は、大部分が褪色してしまっている[57][注釈 15]

勝川春章は安永年間(1772-81年)に細判[注釈 16]錦絵にて、どの役者か見分けられる描写をし、役者名が記されていなければ特定不能な、鳥居派のそれを圧倒した。同様の手法で、相撲絵市場も席巻した。天明年間(1781-89年)には、肉筆美人画に軸足を移し、武家が購入するほど、高額でも好評であった[61][62]。弟子の春好 は、役者大首絵を初めて制作した[63]鳥居清長「飛鳥山の花見」、1780年代後半。

鳥居清長は書肆(しょし。書店のこと。)出身で、屋号の「白子屋」をそのまま号とした。天明年間(1781-1789年)に、長身美人群像を大判横2・3枚続きで表現した。前景の群像と後景の名所図は、違和感なく繋がり、遠近法の理解が、前世代の奥村らより進んだことが分かる。鳥居派として、役者絵も描いたが、上述の組み合わせを応用し、役者の後ろに出語り三味線太夫)を入れ込む工夫をした[64][65][66]。春画『袖の巻』は、12.5×67センチという、小絵[注釈 17]のように極端な横長サイズに、愛する男女をトリミングして入れ込んだ、斬新な構図である[68]喜多川歌麿、絵入狂歌本『潮干のつと』、1789年頃

喜多川歌麿が名声を得るのは、版元蔦屋重三郎と組み、1791年(寛政3年)頃に、美人大首絵を版行してからである。 雲母摺りの「婦人相学拾躰」、市井の美人の名前を出せないお触れが出たので、絵で当て字にした「高名美人六家撰」、顔の輪郭線を無くした「無線摺」、花魁から最下層の遊女まで描く等、さまざまな試みを蔦重の下で行った。また絵入狂歌本『画本虫撰』『潮干のつと』等では、贅を尽くした料紙、彫摺技術がつぎ込まれた 。1804年(文化元年)、『絵本太閤記』が大坂で摘発され、手鎖50日の刑を受け、その2年後に没した[69][70][71][72]歌麿「太閤秀吉と側室たちの花見」、1804年。この作品で彼は手鎖刑を受ける。

寛政2年(1790年)、「寛政の改革」の一環として、改印(あらためいん)制度[注釈 18]ができた。以降も松平定信が老中を辞す寛政5年(1793年)まで、浮世絵への取り締まりが度々行われた。上述の歌麿が受けた、「市井の美人の名前を出せないお触れ」もその一つである。改印制度自体は、明治5年(1872年)まで続く[74]

寛政7年(1795年)5月、蔦屋重三郎が、東洲斎写楽による大首役者絵28点を一挙に版行する。無名の絵師に、大部でかつ高価な黒雲母摺大判を任せるのは異例である。版元の判断だけでなく、何らかのスポンサーがいたのではと考えられる。


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