浪曲
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 「落語に続け」浪曲人気復活、自由な表現で活気づく『日本経済新聞』2017年5月8日夕刊16面
^ a b 「 ⇒『浪曲は死んだ』から2年、木馬亭には若い女性客が増加」『週刊ポスト』2017年9月15日号
^ 真鍋2017p.6
^ 秩父重剛『浪花節大全』p.3
^ 雲右衛門は凱旋の頃にはフシを関東節から九州の芸も取り入れ、関西節の低調子に切り替えた。出典:ワッハ上方『上方演芸大全』p.287。
^ 唯1999, p. 12.
^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』p.8。木魚を用いてリズミカルに歌うのが、特に「阿呆陀羅経」といわれた。
^ 大西信行『浪花節繁昌記』
^ その源流として古くから伝わる節談説教声明。さらなる源流として大陸伝来の京調(きょちん)、打鈴(だいしん)。出典:三波春夫『歌藝の天地』p.
^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』p.9。内容は尽くし物や芝居の段物、「色里名寄せ」「役者づくし」「小春紙治紙づくし」「鎌倉山(佐野の隠れ家)」「女盗賊(笠松峠)」「尾張源内(明石鉄砲)」「巡礼殺し(八鬼山峠)」等がある。
^ 『定本』p.37-44
^ ワッハ上方『上方演芸大全』p.284。浪曲の章は執筆:芦川淳平
^ 出典:倉田喜弘『芝居小屋と寄席の近代―「遊芸」から「文化」へ』p.152
^ 中村(1983)p.302-303。なお、1)蝶浮連節=浮れ節=チョンガレで興行届を同じ代表が書いている。2)届けに浅草在の「浪花節」の鑑札の写しがある(届けの年月日不明)。
^ 江戸東京で「ウカレブシ」の呼称では駄目な理由をきちんと説明した文献は関東側には一つとしてなく、雑誌『上方』144号(1943.(1))の「関西浪花節の今昔」に「江戸名物の都々逸、大津絵、甚句、などが『浮かれ節』として」あったためとあり、これが明確な説明である。出典:『日本近代歌謡史』p.2258-2260。
^ 「明治7年麻布の寄席「福井亭」に春日井松之助・八木亭清歌が出演したことが端緒」という異説あり。『万有百科大事典 3』p.385.文責は河竹登志夫
^ 異説として、神田橋の寄席「渡辺亭」。出典:高橋博『大衆芸能』p.95。
^ 1873年(明治6年)には両国広小路の見世物小屋が禁止された 出典:海野弘『東京の盛り場』(2000)p.22
^ 小沢昭一『写真集 昭和の肖像<芸>』(ISBN 4480876324)p.13.
^ 『定本』p.203に伊藤高麗右衛門の記載あり。
^ 唯1999, p. 4-6.
^ 唯1999, p. 26.
^ 原典:大我居士『貧天地飢寒窟探検記』(飢寒窟編)p.14、出典:上島敏昭「仇討ちのドラマトゥルギー―浪花節の忠臣蔵をめぐって―」『芸能』33(12) p.30
^ 唯、p.9。「雲入道一代」『二六夕刊』1912年(大正元年)8月27日 - 9月4日まで7回?6回連載を確認済み。
^ 『上方芸能』(136)p.28
^ 明治25年に番付あり。『定本』p.78
^ 『定本』p.83
^ 出典:『近代日本芸能年表 上』p.95。『萬朝報』『読売新聞』など当時の在京紙の多くの紙面に残っている。
^ その場に実地見学でいた一心亭辰雄の回想録によれば、講談の邑井貞吉が『南部坂』をやったという。(上記新聞記事に講談の出演記載無し)駒吉は『仙台の鬼夫婦』を演った。(『浪花節一代』, p. 63-65)
^ 吉川潮『江戸っ子だってねえ 浪曲師廣澤虎造一代』(1998年刊)p.22によれば、明治26年。柳亭左楽を筆頭に落語・講談連合から開催に強硬に反対する意見が出たが、円遊の仲介で手打ちになったという。
^ 「○猶敗北の例をいはば、浪花節といふもの、都の中央にては大ろじといふに折々かかるのみなりしが、この程は宴席の余興にも召されて、これが寄席に旦那様奥様の黒の羽織を見ること、敢えて珍しからずと聞く」。発表は『太陽』明治30年10月号、確認済み。出典:坪内祐三編『明治の文学 15 斎藤緑雨』(筑摩書房 2002年)p.410。
^ 大円朝こと三遊亭圓朝も出演した大店である。出典:三遊亭圓生『寄席切絵図』。
^ 1885年(明治18年)3月下席には早くも美弘舎東一、浪花亭駒吉が出演している。出典:芝清之『浪花節 東京市内・寄席名及び出演者一覧』。
^萬朝報』1900年(明治33年)10月13日付。出典:兵藤『<声>の国民国家・日本』。確認済。
^ 『うなる』p.106
^ 大西信行『浪花節繁昌記』によれば明治24年。
^ 浪花亭駒子(一心亭辰雄)の回想録。(『浪花節一代』, p. 24-25,70-71)。
^ 正岡容『日本浪曲史』p.180-181「明治31年、浪花節界は感情的にもつれ、愛進舎、共盛会の二派に分かれ、三十五年和解したがさらに同志会が生まれ、この派には楽遊や小楽や小福や重子(初代重正)も属したが(以下略)。
^ 活動写真の日本初は1896年(明治29年)11月17日
^ 松竹株式会社『歌舞伎座百年史 資料編』p.53
^ 安田宗生 編『美當一調・桃中軒雲右衛門関係新聞資料』
^ 唯1999, p. 334.
^ 来日したグラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグによる。以下はその復刻版。『日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』TOCF 59051。
^ 原典:『朝日新聞』1906年10月2日。(唯1999, p. 10-11)
^ コトバンク「源氏節」
^ 唯1999, p. 39.
^ 秩父久方によれば「当時の壮士演説会のようすを模倣し、芸能的にショーアップしたものであろう」出典:「浪曲」『日本大百科全書』18巻p.531。
^ 岡本和明『俺の喉は一声千両』
^ 寄席の入場料が十の時代に、一等一円の料金を取り、最初の5日間で費用を回収、それ以降は入場料がそのまま利益という近代興行界最大の快挙であった。出典:倉田喜弘「浪曲」『日本音楽大事典』平凡社
^ 派手な宣伝は相当なもので、東京市中に「日本一の奈良丸」とビラなどで告知、関東の浪花節語りは一斉に反発しビラを叩き落として回ったという逸話が残る。出典:『定本』p.139。
^ 1908.2.11 浪花節、吉田奈良丸、新富座、宣伝文句の「日本一」で浪花節界紛糾(?2.25)[二六新報]『年表』上、p.140。
^ 1908年(明治41年)6月15日。『福岡日日新聞』によれば当年13歳。
^ 1910年(明治43年)6月27日。『福岡日日新聞』によれば12歳。
^ 1911年(明治44年)9月29日。『河北新報』によれば13歳。
^ 成人し、後に娘が天津羽衣
^ 唯1999, p. 8の表2.
^ つまりレコードも上・中流階級から普及し、隠れるように浪花節を聴いたのである。(『日本近代歌謡史』, p. 3, 別冊付録「日本流行歌大系・略史」)
^ 山口亀之助『日本レコード発達史』p.164
^ 倉田喜弘『日本レコード文化史』
^ 明治26年頃には「どんどん節」は流行っている「たいちようドンドン節」。円車の節を織り込んだ「新どんどん節」は明治44年に流行。
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:359 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef