浪曲
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^ 現代人からすれば「歌う」であるが、詳しくは語りものの項に説明があるので参照のこと。
^ 浪曲師と曲師がどう呼吸を合わせて演奏しているかは国本武春『待ってました名調子!』に詳しい。東家みさ子(p.46-54)、岩崎節子(p.96-99)、沢村豊子(p.100-103)の項などを参照のこと。
^ 相三味線は歴史的に配偶者、つまり女房が多かった。このケースは2024年の時点で比率は減っているが、東家一太郎における東家美、三代目広沢菊春における広沢美舟などの例も散見される。
^ 現代に向かっていく中で、高野東海や山本太一など男性の高名な曲師もおり、また曲師不足に起因するフリー曲師の増加もあり、現在は組合せに特別なものはない。
^ 『日本浪曲史』南北社版(1968年刊)p.373(中川明徳による補章)は、天龍三郎がギター奏者をつけ始めたことを批判的に書いており、その頃より始まり、一手法として京山幸枝若など上方に定着した様子がうかがえる。
^ 「コロニア浪曲」。細川に頻出。
^ 『痴遊雑誌』に転載された「浪花節漫語」の上欄、北村大巴(浪花容峰)の寄稿にもあるように、古くから関西で「浪花節だから浪花(大阪)」と単純化をする傾向が見られる。出典:『痴遊雑誌』復刻2巻p.882。
^ 東西の境を超えた巡業的屋に似て少ない。出典:『テキヤはどこからやってくるのか?』(ISBN 978-4334037956)p.21。
^ 『日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』にも「うかれぶしさわぎ」という名の今の浪花節とは別の音曲(演者・立花家圓左衛門、富士松ぎん蝶)の収録がある。同じ演者にある「浮世節」の別称であろう
^ 同時期に寄席に登場したオッペケペーの浮世亭○○こと川上音二郎娘義太夫などと比べても明らかである。
^ 現在の上野駅構内。1882年(明治15年)11月に閉鎖される。
^ 明治期に入り火除地となる。明治23年には日本鉄道の貨物駅用地となる。
^采女橋の脇に空き地があった
^ 今の新橋駅日比谷口近辺
^ 佐竹藩の屋敷跡。 ⇒現在の台東区台東『竹町の人とくらし(台東区文化財調査報告書 第18集)』台東区教育委員会文化事業体育課、1995。
^ 本所の津軽藩屋敷跡。 ⇒今の墨田区緑図書館の近辺
^ いずれも後に周辺に寄席が出来ている
^ 中村幸彦1983p.300
^ 明治5年とする石谷華堤説と明治10年以降とする平林説が主にある。全容については芝清之『浪花節 東京市中・寄席名及び出演者一覧』の冒頭を参照のこと。しかしながら「遊芸稼人」の歴史における重要な明治8年刊『諸芸人名録』に浪花節の名はなく、それ以降に結成されたと具体的に推定できる。
^ 節談説教の演目と重なり、その影響がうかがえる。
^ 東京・神田「市場亭」、浅草雷門「新恵比寿亭」が共に開場するのが明治25年。 出典:芝清之『浪花節 東京市内・寄席名及び出演者一覧』。
^ 芸人同士の深刻な対立ではなく、合併興行をする場面も多くあった。
^ 消えた芸能として挙げた(倉田喜弘などの研究)。
^ 実際には今でいうブレーン的役割を果たした。
^ この上京の前、佐世保での公演後に二人は別れ、宮崎は「白浪庵滔天」の名を芸名としても使い、後に伊藤痴遊一心亭辰雄と関西巡業している。
^警視庁統計書』によれば当時1904年の東京市内の寄席は135軒。1日あたりの平均客数は昼席45人、夜席73人。それに対し、東京市内の劇場は大劇場が7座、小劇場が12座存在し、1日あたりの平均客数429人で一幕見を加えると、719人。出典:上田学『日本映画草創期の興行と観客』早稲田大学出版部、2012年3月30日。ISBN 9784657120045 p.70。
^ 正岡容「雲右衛門以前」は『日本浪曲史』のプロトタイプと呼べる作品である。その集成にもある。
^ 活動写真大流行「戦争後は火が消えたような活動写真がにわかに復活し、市内至る所に楽隊の囃子賑わしく、興行場はどこも大入り大繁盛。(中略)芝居に飽き、寄席に飽き、浪花節に飽き果て」た結果である。と書かれる状況になる。原典:『東京朝日新聞』1908年8月24日。年表下p.188。
^ 三波春夫の歌舞伎座公演2年目の1966年谷屋充作『風流奈良丸くづし』
^ これは創立間もない講談社が速記から創作(今に至る路線である)に転じる重要なきっかけとなる
^ 『講談社の90年』には、明治44年「講談倶楽部」創刊号には「浪花亭重松」で速記掲載があったが、問題の大正2年の増刊「浪花節十八番」発売記念の浪花節芸者大会に「木村重松」で出演していることが確認できる。
^ 一部で定説化した「大正6年12月20日付の『都新聞』紙上で初めて使用された」という事実は無いが、直後の年明け大正7年1月3日付には同紙上で記述を発見できる。関西でも大正9年8月18日付の『大阪毎日新聞』にある。その頃既に浪曲の世界を「浪界」と呼ぶ記述は見られ、「浪界」の初出は明治41年6月15日『福岡日日新聞』よりは以前。以上は芝清之『新聞にみる浪花節変遷史』明治編、大正編でも確認可能。
^ 当時、流行していた天才少年浪曲師が楽屋に増えた事に対する言葉だという異説あり。
^ また1930年(昭和5年)10月に浪花節「大和魂・国勢調査」吉田大和之丞、コロムビア。年表下。
^ 二代目東家楽遊の浜町御殿や鼈甲斎虎丸の中野御殿、また、初代雲月の唐津の大邸宅の一帯が「雲月町」と呼ばれていた例、戦後に寿々木米若の伊東温泉割烹旅館「よねわか荘」など。また、大和之丞(二代目奈良丸)が中心となって1935年(昭和10年)京都で大石神社を創建した例がある。
^ その様は、梅中軒鴬童『浪曲旅芸人』などに詳しい
^ 他に、当時レコードを活用し音楽(主にクラシック)の講演(今でいうレコードコンサート)をしていた田辺尚雄のエピソード。明治末年には「地方の講演は」「学校の講堂でやる」。「蓄音器を一台」準備を頼むと「レコードは浪花節か端唄か民謡」しかないが用意しときますと返事されたという。初めて聞く交響曲やピアノソナタ、オルガン曲に非常な驚きを示したと。田辺尚雄『明治音楽物語』p.301)
^ 日蓄は内憂(ラジオの脅威)外患(電気吹込という新システムを利用した外国レコードの参入)を抱えていた。出典:『昭和演歌の歴史』p.74欄外
^ a b 1924年秋に常務理事に就任した新名直和が打ち出した番組編成方針により、浪花節はその人気が排除の対象となる。新名は「放送の目的は、教養・報道・娯楽」であり「この鼎の三本足が相俟ってやっていくべきものと思うが、その中で最も中心となるべきものは教養である」との見解を表明するとともに、当時根強い人気を誇っていた浪花節をはじめ、小唄や常磐津などを「社会の悪」として放送しない方針を打ち出した。このためニュースに続いて、当初逓信省が想定していた伝統音楽や伝統芸能のいくつかも番組の候補から脱落した。原典:「座談会・放送事始」での新名の証言。『放送文化』1960年3月号.また浪花節は、宮家から放送の要請があるまで一度も放送されないほど徹底して除外されていた。(日本放送協会編『放送五十史年資料編』日本放送出版協会、1977年)出典:戸ノ下達也/長木誠二『総力戦と音楽文化』p.198
^ 国会図書館「れきおん」に多数録音が残されている
^ 吉川潮『江戸っ子だってねえ 浪曲師廣澤虎造一代』日本放送出版協会。1998年10月24日。ISBN 978-4140053089。「第7章 血煙田島町」p.168-189
^戦時ラジオのプロパガンダによる戦争責任を考える論文に愛国浪曲が1文字も無い。
^ 大会の存在自体に疑問符
^ 存在自体に疑問符が付く
^ またこう書く人もいる。「日本はポツダム宣言にもとづいて連合国に占領されることになった。(中略)天皇自ら天皇の人間宣言を行い、平和主義に徹し(中略)昭和20年9月13日、GHQの民間情報教育部(局)からの通達につぎのような内容が含まれていた。『尚演芸放送に関しては地方放送に於ても実施するを認められ居るも之が取扱に付ては当分の間純娯楽的なるものを主とし講談、浪曲、放送劇等に於ても軍事的好戦ものはなさざること』」p.238「この占領政策によって、義理人情や義侠の精神などの日本固有の価値観が否定された。浪曲はこの急速に衰退することになった。だが、戦前、戦中を生き抜いてきた日本人の価値観がそう簡単に消え去るものではなかった。日本人の底に流れる心情の世界を代弁する浪曲・浪花節はやがて、流行歌の形式を借りて新境地を開拓し義理人情の世界を表現するようになる」p.239欄外『昭和演歌の歴史』戦後の民放ラジオによるラジオ浪曲ブームを軽視し、敗戦とともに浪曲は終わった、とする立場
^ 「銭形平次」(ラジオ東京 - 文化放送)は異例の長期間にわたる番組であった。脚本は全て国友の自作

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