浪曲
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^ この特徴的な声については、『日本の古典芸能 9 寄席』p.44に中村幸彦による説明がある。
^ 正確には、よく言われるような(理想的な)浪曲師の声としてのシオカラ声・しわがれ声・ダミ声は誤り。
^ 現在の西洋音階が絶対視される状況に於いての「美声」とは違う。
^音声ファイル 32分00秒付近
^ コピー芸という批判的な文脈が未だ使われる。出典:『東京人』380号p.43-46
^ 虎造節は、時の試練を越えて ⇒保存会が結成・活発な活動がなされている
^ BGM 国本p.11
^ 一話を一段と呼ぶ
^ それを逆手に取ったのが、初代京山幸枝若の巧みな芸であった。実際には無いのに「この後続きはレコードで」などがある。出典:国本p.84
^ 「本日のお外題は」という形で演題名を紹介することも多い
^ 読みのみ一定していて、表記に揺れが見られる場合はカタカナで表記するルールに基づく
^ 主に歌舞伎大向う義太夫の慣習からの移行と考えられる。
^ もちろん例外もあり、雲右衛門は入道姿で舞台をこなした例、同様に東武蔵や玉川勝太郎が袈裟姿で高座をこなした例もある。
^ 芝居における引幕、落語における後幕、相撲の化粧回しと同じくファンが浪曲師に送る物があり、寄贈者名が記してある事が多い。浪曲師個人で所有。国本p.137
^ 更に「浪曲大会」などの格式張った舞台になると、テーブルの両サイド、離れた位置にさらに小さなテーブルを置き、松の盆栽を置く。
^ 関西では一風亭初月、関東でも沢村豊子・佐藤貴美江・玉川みね子が、時おり出弾きを披露する。
^ 曲師を隠すのは、明治時代活躍した桃中軒雲右衛門が、曲師をしていた美しい妻を観客が狙わないように隠したことに由来するという俗説があるが、実際にはそれ以前に美当一調が始めた。出典:安田宗生編『美當一調・桃中軒雲右衛門関係新聞資料』
^ 三味線を持つ曲師は、ついたて無しに右隣に座る。
^ 最初は釈台を使ったが、後には釈台もなく語った [267]
^ 落語家との共演が多い玉川太福がテーブル掛けを座り高座用に畳み、披露している。
^ 浪曲作家は浪曲史研究家を兼ねるケースが非常に多く、その著作数は多い
^ 京山若丸作。広島県矢野村に住む貧しい小作農夫、松岡のもとに召集令が下り、病気の妻と幼子2人を残し戦地へ。周囲は冷たく、高利貸に罵倒されて誰の助けもなく、仕事先の組頭にも残す家族の世話を断られる。妻は夫の心残りを察して、2人の子供も殺して自分の元へ送ってくれと書き遺して自殺していた。悲しみのうちに松岡が子供に手をかけようとする間一髪、ただ一人の理解者である警官が飛び込んで松岡を諭す。様子を聞いていた高利貸も飛び込んで非を詫び、松岡は出征していく。日露戦争後の社会の疲弊と成金の出現を痛烈に批判した全く架空の話だが、そのリアルさゆえモデルの松岡を名乗る男ができるほどヒット。関東では東家楽燕、関西では天光軒満月がそれぞれ脚色して受け継ぐ。出典:ワッハ上方『上方演芸大全』p.292欄外
^ また関西テレビの節に浪曲ジャンルの出演者として鉄砲光三郎も入れられている。放送演芸史p.297。なお、章末の放送演目一覧表には独立して「音頭」の項目がある放送演芸史p.314
^ 昭和30年から50年ごろまで、東西のコマ劇場で大勢の観客を集めた公演には必ずといっていいぐらい劇中劇があった。誰でも知っている芝居の名場面のパロディで、コメディアンと演出家の腕のみせ所だった。劇中劇にもいろんな切り口があるのだが浪曲(フシ)劇は必ずうける定番であった。当然のことだが浪曲劇は浪曲がうまくないとおもしろく展開しない。浪曲がまだまだ盛んなころだったから、笑いものにされるために出てくれる浪曲師などいるわけはない。というわけで劇中劇の浪曲劇は、コメディアンで浪曲のできる人がいないと成立しないから、いまではやれなくなってしまった。あのころは堺駿二が見事な節で、「港家小柳丸の実弟だもの」と教えてもらって納得した。玉川良一さんは家号の通り玉川一門で、?利根の川風、タモトにエレテエ・・・・・・をギャグにしていたぐらいだから浪曲劇はお手のものだった。雁之助さんは五条家金玉師匠が組んだ浪曲劇の一座でやっていたというから本物である。一度だけねだって雁之助さんが劇中劇で「神崎与五郎・東下りの場」を浪曲劇でやってもらったことがある。浪曲師・芦屋雁之助三味線・岩崎節子神崎与五郎・宮川大助茶店の婆さん・間寛平馬子丑五郎・芦屋小雁馬の足・芦屋雁平という配役である。沢田隆治『私説大阪テレビコメディ史』p.23-24
^ 戦中である1943年(昭和18年)末に発表された大日本興行協会の全国統計によると、浪曲専門の一座は255座、浪曲・漫才の座は49、浪曲及び舞踏は4、浪曲劇専門は41、時代劇と浪曲劇を併演するものは12。出典:『実録 浪曲史』p.118 ★要確認
^戦前はこちらが詳しい
^ キネマ旬報年間ベストテンには、戦前に浪曲でもおなじみの主人公の映画がいくつかランクインしているが、「浪曲映画」は戦前戦後を通して数少ない。 ⇒参考サイト
^ 浪曲そのままのタイトル、浪曲師でもある2代目友衛のヒット曲であるが、歌謡浪曲の特徴は備えておらず、その点もあってか浪曲の範疇には取られないことが多い.
^ 本調子であり、浪曲とは異なっている
^ 司会の芦川淳平が書いた『浪曲の神髄』に放送リストがある
^ いずれも1クール(3ヶ月)程度の短いもので、テレビでも人気が定着したとは言い難い
^ 浪曲を愛好してそのもの真似をやりたがるのは、農村を含めた全国の庶民だった。『ものまねの歴史』p.219
^ 浪曲の世界ではまず先人の節まねから入り、徐々に自分の節使いを創造していくのが常道である。節まねは特別なものでなく、今でも二代目東家浦太郎など、高座の余興で披露する場合がある。
^ 「雲右衛門の弟子で雲太夫といった人が、(柳亭)左楽さんの門下になって、信楽を名乗った。本名を鈴木政吉という。今西の正蔵がこしらえた『墓誌』に出ております」出典:三遊亭円生『寄席切絵図』(引用者補足:桃中軒雲太夫といえば東家楽燕のことであり、おそらく芸談の類であろう)
^ 弟子筋に当たる古今亭志ん輔が継承し現在も寄席で演じることがある
^ 言わずもがなだが、地元の清水次郎長伝→虎造→森の石松の連想が強力に働いたと思われる。
^ 小、坊については修行中を表す意味が強く、その名を持つ浪曲師だけを集めた大会もしばしば開かれた。(唯1999, p. 90)
^ =東西の両協会(日本浪曲協会と浪曲親友協会)への名前登録の有無
^ 東三光は本来、京山華千代初代春野百合子の師匠の名前である。

出典^ a b c 「浪曲の魅力 映画で再発見」『読売新聞』朝刊2020年6月20日(エンタメ面)
^ 出典:小学館日本大百科全書(ニッポニカ)』「浪曲」秩父久方
^ 公益社団法人浪曲親友協会「浪曲とは」
^ 日本浪曲協会主催で度々開かれる大会等イベントは「笑う浪花節vs. 泣く浪花節」
^東京人』380号、p.16
^ または浪曲家(ろうきょくか): 三波美夕紀『昭和の歌藝人 三波春夫――戦争・抑留・貧困・五輪・万博』(さくら舎、2016年5月14日 ISBN 9784865810523)p.25
^ 国本、p.43-44
^ エーピーピーカンパニー『江戸東京芸能地図大鑑』付属冊子。p.23
^ 稲田、2014、p.123
^ 山折哲雄【「歌」の精神史】第3回「浪花節と演歌」『中央公論』2005年7月号
^ 「一時期はこの国の大衆演芸のトップを占め、黄金時代とよばれる全盛期を、なんどもくり返しつかんだことの浪花ぶしなのに、この国の知識人からひどくうとまれさげすまれて来た浪花ぶしである」(大西、p.8)
^ 稲田、2014、p.122。主に雲右衛門、楽燕の亜流による『義士伝』『乃木将軍』などの押しつけがましさによると推測されている。
^ 『定本』p.26.
^ 『定本』p.25.
^ 『定本』p.26.「文反故」
^墨東奇譚』で浪花節嫌いを明言している。
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