浪曲
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^墨東奇譚』で浪花節嫌いを明言している。
^ a b 「日本から抹殺すべきもの」アンケートに「浪曲」と回答。『群像』1950年2月号。(唯1999, p. 326)
^ 1942.7.7 聖戦5周年楽壇総動員大演奏会、交響詩曲「皇軍頌歌」作詞三好達治、作曲山田耕筰・諸井三郎・山田和男・尾高直忠・市川都志春、於国技館、主催東京日日新聞、陸海軍軍楽隊、後援陸海軍省、情報局」ラジオ放送された。『日本近代芸能年表(上)』p.120、『下』p.299。
^ 「久保田万太郎先生は『私は浪花ぶしといふものが大嫌ひである』と明記。(以下略)『定本』p.26
^ 大西、p.10
^ 中野朗『変奇館の主人』響文社、1999年11月、310頁。 
^ 『清水みなとの名物は―わが心の劇団ポートシミズ』
^ 久米宏 ラジオなんですけど:「おらおらでひとりいぐも」おひとり様老女は何を思う TBSラジオ(2017年11月25日)2020年6月22日閲覧
^ 『昭和十年生まれのカーテンコール』ISBN 9784864880367
^ 典拠:『高田文夫の大衆芸能図鑑』(ISBN 4093798877)、『イヨッ たっぷり!: 高田文夫の大衆芸能図鑑2』(ISBN 4093798974
^ “ ⇒記録2003?2004”. Min Tanaka ★ Rin Ishihara ★ Madada Official Web Site ★. 2023年5月13日閲覧。
^ a b 「浪花節の主要なテーマに「義理人情」がある。「義理人情」は、社会生活の喜怒哀楽を生み出す源泉である。(中略)既存の人間関係を保持しようとする〈義理〉と、積極的に他者と関わり、思いやることをすすめる〈人情〉を両立させようとする登場人物の言動は、しばしば感動を引き起こし、涙を誘う。浪花節の物語、特に「義理人情」をテーマとするものには、逃避できない日々の暮らしの中で耐え忍び、なんとかして生きていく人々の姿がえがかれる。なかでも〈義理〉は様々な拘束を生みだす。受動的なきっかけにより生じた〈義理〉は、定着後、人の言動をコントロールしてゆく」真鍋、2017、p.161。
^ 出典:デジタル大辞泉「浪花節的」(コトバンク)2020年6月22日閲覧
^ a b c 小沢昭一『日本の放浪芸』p.361
^ 広沢龍造編『独習で上達する浪曲の習い方』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2477920
^日本が誇るエンターテイメント「浪曲」を世界へ! 浪曲師・春野恵子がNY公演にチャレンジ!-世界を変えるクラウドファンディングサービスCOUNTDOWN
^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』p.232-233
^ 国本、p.136
^ 『まるごと三味線の本』p.117
^ 出典:『上方伝統芸能あんない』浪曲の章p.89-102。
^ 出典:『上方演芸大全』p.295
^ 明治・大正期は男性の浪曲師が女性浪曲師より多かった。演題の多くは男女の区別なく共有され、男性中心の史観で事足りた。真鍋、2017、p.227。
^ 『東京人』380号p.20-21
^ 玉川太福が2015年、シブラク創作大賞を受賞した。
^ 「平成の浪曲時代がやってきた!」『東京人』380号p.12
^ 「落語に続け」浪曲人気復活、自由な表現で活気づく『日本経済新聞』2017年5月8日夕刊16面
^ a b 「 ⇒『浪曲は死んだ』から2年、木馬亭には若い女性客が増加」『週刊ポスト』2017年9月15日号
^ 真鍋2017p.6
^ 秩父重剛『浪花節大全』p.3
^ 雲右衛門は凱旋の頃にはフシを関東節から九州の芸も取り入れ、関西節の低調子に切り替えた。出典:ワッハ上方『上方演芸大全』p.287。
^ 唯1999, p. 12.
^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』p.8。木魚を用いてリズミカルに歌うのが、特に「阿呆陀羅経」といわれた。
^ 大西信行『浪花節繁昌記』
^ その源流として古くから伝わる節談説教声明。さらなる源流として大陸伝来の京調(きょちん)、打鈴(だいしん)。出典:三波春夫『歌藝の天地』p.
^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』p.9。内容は尽くし物や芝居の段物、「色里名寄せ」「役者づくし」「小春紙治紙づくし」「鎌倉山(佐野の隠れ家)」「女盗賊(笠松峠)」「尾張源内(明石鉄砲)」「巡礼殺し(八鬼山峠)」等がある。
^ 『定本』p.37-44
^ ワッハ上方『上方演芸大全』p.284。浪曲の章は執筆:芦川淳平
^ 出典:倉田喜弘『芝居小屋と寄席の近代―「遊芸」から「文化」へ』p.152
^ 中村(1983)p.302-303。なお、1)蝶浮連節=浮れ節=チョンガレで興行届を同じ代表が書いている。2)届けに浅草在の「浪花節」の鑑札の写しがある(届けの年月日不明)。
^ 江戸東京で「ウカレブシ」の呼称では駄目な理由をきちんと説明した文献は関東側には一つとしてなく、雑誌『上方』144号(1943.(1))の「関西浪花節の今昔」に「江戸名物の都々逸、大津絵、甚句、などが『浮かれ節』として」あったためとあり、これが明確な説明である。出典:『日本近代歌謡史』p.2258-2260。
^ 「明治7年麻布の寄席「福井亭」に春日井松之助・八木亭清歌が出演したことが端緒」という異説あり。『万有百科大事典 3』p.385.文責は河竹登志夫
^ 異説として、神田橋の寄席「渡辺亭」。出典:高橋博『大衆芸能』p.95。
^ 1873年(明治6年)には両国広小路の見世物小屋が禁止された 出典:海野弘『東京の盛り場』(2000)p.22
^ 小沢昭一『写真集 昭和の肖像<芸>』(ISBN 4480876324)p.13.
^ 『定本』p.203に伊藤高麗右衛門の記載あり。
^ 唯1999, p. 4-6.
^ 唯1999, p. 26.
^ 原典:大我居士『貧天地飢寒窟探検記』(飢寒窟編)p.14、出典:上島敏昭「仇討ちのドラマトゥルギー―浪花節の忠臣蔵をめぐって―」『芸能』33(12) p.30
^ 唯、p.9。「雲入道一代」『二六夕刊』1912年(大正元年)8月27日 - 9月4日まで7回?6回連載を確認済み。
^ 『上方芸能』(136)p.28
^ 明治25年に番付あり。『定本』p.78
^ 『定本』p.83
^ 出典:『近代日本芸能年表 上』p.95。『萬朝報』『読売新聞』など当時の在京紙の多くの紙面に残っている。
^ その場に実地見学でいた一心亭辰雄の回想録によれば、講談の邑井貞吉が『南部坂』をやったという。(上記新聞記事に講談の出演記載無し)駒吉は『仙台の鬼夫婦』を演った。(『浪花節一代』, p. 63-65)
^ 吉川潮『江戸っ子だってねえ 浪曲師廣澤虎造一代』(1998年刊)p.22によれば、明治26年。柳亭左楽を筆頭に落語・講談連合から開催に強硬に反対する意見が出たが、円遊の仲介で手打ちになったという。
^ 「○猶敗北の例をいはば、浪花節といふもの、都の中央にては大ろじといふに折々かかるのみなりしが、この程は宴席の余興にも召されて、これが寄席に旦那様奥様の黒の羽織を見ること、敢えて珍しからずと聞く」。発表は『太陽』明治30年10月号、確認済み。出典:坪内祐三編『明治の文学 15 斎藤緑雨』(筑摩書房 2002年)p.410。
^ 大円朝こと三遊亭圓朝も出演した大店である。出典:三遊亭圓生『寄席切絵図』。
^ 1885年(明治18年)3月下席には早くも美弘舎東一、浪花亭駒吉が出演している。出典:芝清之『浪花節 東京市内・寄席名及び出演者一覧』。
^萬朝報』1900年(明治33年)10月13日付。
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