浪曲
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浪花節の複雑で、結局、つかみ所のない魅力は「」(ぬえ)に度々たとえられる[43][44]

日本国内(内地)から国外への殖民・移民第二次世界大戦前を中心に盛んに行われたが、それに伴う浪曲の普及は結局、日本人及び日系人社会に留まり、人種社会を超えた広がりを持たなかった[注釈 11]

なお、講談などの二次的著作物であるかの点で争いの種は消えない。
歴史

「浪花節」という字面だけを見て関西で出来た物である、と短絡をするのは以下にみるように誤りである。注意されたい[注釈 12]。芸としての源流が関西にあるとしても、その源流は前進の芸能、デロレン祭文のように関東にもある。「浪花節」という名は東京発である。また、落語のように東西差はあまり無く、桃中軒雲右衛門二代目広沢虎造のように東西を股に掛けた交流、旅回りが浪曲の歴史の重要な部分[45][注釈 13]と言える。また第二次世界大戦のとき「戦いの歌」として浪曲が喧伝されたのは周知のことである[46]
形成期から、芸としての成立へ

浪曲は、いずれも願人が多く演じていた、「ちょぼくれちょんがれ」(阿呆陀羅経[47]を基礎にデロレン祭文(貝祭文)など近接する門付諸芸[48]が徐々に合流し、同じく源流を共にする説経節の影響を受け[49]大道芸として始まった。幕末期、特に大坂では、さらに講談などの影響から複雑な語り物を扱う「ちょんがれ節」に転化した[50]。成立に先行する文化・文政年間、大坂など上方の浪花伊助(なにわ いすけ)[51]が、阿波浄瑠璃、祭文春駒節、ほめら等を取り入れて「浮連節(うかれぶし)」と名付け、新しく売り出した芸を源流とするが、伝説である[52]。後述する雲右衛門が「浪花節」の名で関西で口演した後、明治36年以降も大阪の芸人は「浮れ節」で登録があった。大阪でも「浪花節」になるのは大正12年である[53]。大阪から西の地方では「浮かれ節」という呼び方が主であった。中村幸彦の研究により、大阪の浮かれ節は明治4年より前には寄席出演を果たしている事が判明している[54][55][注釈 14]。横浜・本牧のヒラキで祭文を語って活躍していた青木勝之助(後に美弘舎東一。玉川派の祖)が、寄席進出の運動に私費を全て投じ、東京・四谷の寄席「山本亭」に出演したことを嚆矢とする[56][57]。浪花節は差別され[注釈 15]、組合結成後も寄席への出演は容易にはかなわず、相変わらず浅草・奥山、両国広小路[58]上野山[注釈 16]神田筋違秋葉っ原[注釈 17]八丁堀三角、銀座采女が原[注釈 18]、桜田久保町の原[注釈 19]下谷佐竹っ原[注釈 20]本所津軽っ原[注釈 21]といった盛り場ヒラキがその中心であった[注釈 22]。東京における浪花節の成立・同業組合の結成・寄席出演の時期は諸説ありはっきりせず[注釈 23][注釈 24]、明治12年までには遊芸人の鑑札を得ていたようである。また「浪花節」と称したグループだけでなく、周辺芸能と推定されている「歌祭文節」「都節(一中節ではない)」「七色節」などが、それぞれに盛り場ヒラキで活動し、勢力を維持していた。唯二郎『実録浪曲史』によれば、1882年(明治15年)(当時の浪花節組合頭取は芝新網の藤本清助と芝浜松町の春日井善太郎の2名)から1888年(21年)に至るまで「浪花節」より「七色節」の芸人の数が大きく上回っていた。それが、1891年(明治24年)を境として情勢は一変し、「七色節」の人数は激減する。「都節」「歌祭文節」も減少し、「浪花節」だけが微減にとどまった。なお、当時の浪花節は芝新網、七色節は浅草、神田に多く、また、七色節は浪花節と大差はなく、あわせて越後の五色軍談[59][60]との関連性が指摘されている[61]。この頃、春日井から組合頭取を引き継いだ浪花亭駒吉は、講釈の昼席に通い演題を仕入れ、また説経節の日暮龍卜に節調を習うことで、相三味線の戸川てるとともに、浪花節という芸の向上に努め、後に「関東節の祖」と呼ばれるようになる。

当時は、釈台を前に着流し姿で裾をはしょる姿で、説経節に伝わる「小栗判官」や「刈萱」などの寺社縁起[注釈 25]、「鬼神のお松」「八百屋お七」などの巷間に残る語り物などが主に演じられ、「風呂帰りの手ぬぐいを肩にしたその日稼ぎの勤労者」が聴いているというのが普通の寄席風景だったという[62]。また1889年(明治22年)における大阪・名護町の寄席では「まだ大道芸時代の猥雑な雰囲気を残す小屋の中で演じられている浮かれ節は「暁天星五郎、新門辰五郎、国定忠治」といった侠客物や白浪もので」あった[63]

また、吉川小繁(後の桃中軒雲右衛門)は、この時期ヒラキに出ていた。新聞紙上で自身が連載にて告白した所によれば、浪花亭浜勝(駒吉の弟子)の手下として三度ボリ(山場で3回集金に回ること)をしたという[64]
寄席芸としての隆盛期

その後、山の手の端席から都心の大きな寄席への進出が盛んになっていく。しかし、職域を侵され始めた講談や落語からは「ご入来」と蔑視されていた。浪花節の寄席で口演風景

大阪でも浮かれ節専門の寄席(1884年(明治17年)から1889年(明治22年)にかけて、天満「国光席」、松島「広沢館」、千日前「愛進館」など)や浮かれ節の組合(岡本義治の版権問題に対応する必要から愛国社を明治28年に結成[65]。のちの「親友派組合」から親友協会に至る)ができた。

1892年(明治25年)頃には、浪花節の寄席定着があり[66][注釈 26]、東京では勢いが増す。落語や講談と紛争が起きている。明治26年に講釈師落語家と浪花節語りとの合同演芸会が遊楽館で企画された[67]が、講談・落語側が共演を拒否。手打ちとして1894年(明治27年)2月10日・11日、神田「錦輝館」にて三派大集演芸会が開かれる。(落語柳連)三代目春風亭柳枝初代談洲楼燕枝、(浪花節連)初代鼈甲斎虎丸浪花亭駒吉、(落語三遊連)四代目橘家圓喬初代三遊亭圓遊[68][69][70]

1897年(明治30年)、斎藤緑雨がその作品『おぼえ帳』に書いた[71]頃には、都心の東京日本橋葺屋町元吉原そば)の「大ろじ」[72]に浪花節が出演し[73]、駒吉や、門下の浪花亭峰吉浪花亭愛造の活躍もあり、1900年(明治33年)には、東京市内の寄席120軒のうち53軒が浪花節を主にかける(定席)までに勢いを増す[74]


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