浜田省吾
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また、「巻き舌日本語英語っぽく歌いたくない」と話しており、出来るだけクリアーに日本語を歌うよう心掛けているという[121]。洋楽の影響から歌詞に英語が含まれていることが多く、頻繁に海外を訪れているため英会話も堪能である。

歌詞の書き方のポイントとして、「恥ずかしがらない、照れない」ことを挙げる。ツアーに参加している福田裕彦には「(福田の歌詞に対して)いい歌詞なんだけど、これ恥ずかしがってるでしょ? 照れてるでしょ? ダメだよ、それじゃ。もっと照れる、自分で照れて二度と読めないっていうぐらい恥ずかしく書かないと伝わらないよ、歌詞は。」と助言し、福田が「浜田さんって確信犯なの?」と聞くと「そうだよ」と答えたという[122]

1975年のレコード・デビュー以来、一貫してソニー系のレーベルCBSソニー?Sony Records?SME Records)に所属している。ソニー所属の日本人アーティストでは郷ひろみ五輪真弓(ともに1972年レコードデビュー)に次いで三番目の古株であり、男性シンガーソングライターとしては最長である(女性シンガーソングライターとしては五輪真弓)。ちなみに、四番目の古株は1977年から所属している渡辺真知子

デビュー以来、コンスタントにアルバムをリリースしているが、1990年代以降は制作のインターバルが長くなってきている。オリジナル・アルバムに限ってみると、1990年代は3枚、2000年代は2枚の発表に留まっている。

1979年のスマッシュ・ヒット「風を感じて」は、CMソングということで、どこか引っかかる部分があり、長くコンサートで歌わなかったが、実は、ソロになってからCMソングでヒットを出してコンサートツアーをしたい、と色んなCMのオーディションを受けている。しかし1977年、山口百恵三浦友和の『グリコ アーモンドチョコレート』のために作った曲はボツに[83][注釈 9]、1979年のセーラ・ロウエルとキャティのコーセー化粧品「TWO WAY SUMMER」は、「あなた一本で行きますから」と言われたにも関わらず不採用となった[83][注釈 10]など5回ぐらい続く。「風を感じて」は「もうタイアップは二度とやらない」と頭に来ていたタイミングでの楽曲で、三浦徳子の作詞を浜田がほとんどの歌詞を手直ししたといわれ、「アンチCMソング」のような内容になっている[83]。1982年の資生堂春のキャンペーン「ルージュマジック」も依頼があったが、対抗していたカネボウ化粧品HOUND DOGで「パレット・キャット」をやるとなって、「同じCBSソニーではまずいんじゃないか」とボツとなった[注釈 11]

長いキャリアの中で、大きなヒット曲と言えるものは1992年発売の「悲しみは雪のように」(売上170万枚、週間1位、年間2位)の1曲のみ[18]。本人も「唯一のヒット曲です」と自嘲気味に話すことがある[18]オリコンでは通算10週1位を獲得し、平成以降ではCHAGE and ASKAの「SAY YES」(13週)に次ぎ、歴代2番目の記録となった。

邦楽のシングル・レコード(ドーナツ盤)を自分で購入したのは、父親へのプレゼントに買った「星影のワルツ」と、オフコースの楽曲で一番好きな曲だった「愛を止めないで」の2枚だけだという[123]

マイホームタウン」、「MONEY」、「DADDY'S TOWN」など、浜田ほど「故郷・広島」を歌ったアーティストはいない[出典 94]。広島が作品のなかで大きなテーマになってくるのは"家路につく"という意味を持ったタイトル作『Home Bound』以降であるが、広島を背景にした曲は、原爆、基地の街、錆びれた街、工業地帯といった物で、懐かしい場所として讃える「ふるさと賛歌」とは異質のものである[124]

スージー鈴木は「浜田さんの歌詞には寄り添うような弱者の視点があると思う。特に90年代は『がんばろう系J-POP』が支持され、頑張れば夢は叶うというメッセージが流行った。でも、それらの多くは上から目線で、どこか白々しい。それに対し、浜田さんは『俺だって弱い。つらいし泣くこともある。でも歯を食いしばって頑張っている。君だけじゃないんだ』と歌ってくれた。それが聴く者の共感を呼ぶんです」などと評している[22]
交友関係

広島出身ということもあり、大の広島東洋カープファン[26]。ステージ上でカープの帽子、ユニフォームを羽織ったことがある。現役時代の高橋慶彦とは、非常に仲が良かった。他にも前田智徳西山秀二からサイン入りバットをプレゼントされている。

1974年に、吉田拓郎の全国ツアーのバック・バンドでドラマーを務めたのは、「広島フォーク村」の先輩でもある拓郎から誘われたためだが、そのとき浜田は自分のドラムセットを持っていなかった。広島の友達から借りたら、そのドラムはアマチュア時代の拓郎が使っていたドラムだった。本人曰く「当時の広島にはドラムはそんなに沢山なかった」という[125]

同世代の同業者とテレビ・ラジオで共演することは少ないが、洋楽愛好者という共通点がある山下達郎とは互いの番組でコメントやメッセージを送っており、竹内まりやとは1979年TOKYO FMデンオン・ライブコンサート」でスタジオライブを行ったこともある。また、1984年TBSラジオ長渕剛のスーパーギャング」、1990年ニッポン放送松任谷由実のオールナイトニッポン」へそれぞれゲスト出演している。どちらも音楽性やスタンスの違いを認めつつも、時代の共走者としての連帯感は持っている旨を語っている。

尾崎豊福山雅治桜井和寿Mr.Children)など浜田に影響を受けたと言う後輩アーティスト[出典 95]に会う時は、彼らの曲を事前にちゃんと聴いて、暖かいアドバイスを贈っている[出典 96]。言葉は「どんな事があっても歌い続けることだよ」という内容のようである。中村あゆみは、浜田に一番影響を受け人間的にもとても尊敬していると話している[129][130]。1988年渚園での野外ライブにもゲストとして参加し、『HOT SUMMER NIGHT』をデュエットした。

田原俊彦はデビュー前に『MIND SCREEN』を聴いて浜田のファンになり、デビュー後に『MIND SCREEN』に収録された「ダンシング・レディ」をテレビで歌ったことがある[131]。「明星」1987年1月号で対談もしている。田原が行った他人のコンサートは浜田のみで[132]カラオケでは自分の曲は歌わず、浜田省吾と矢沢永吉を歌うという[133]

残酷な天使のテーゼ」などの作詞で知られる及川眠子は、故郷の和歌山から大阪に出て行くとき「MONEY」を口ずさんだという[134]。「MONEY」は地方出身者の成り上がりソングであるが[135]東京出身の田中圭も「ずっと苦汁をなめ続けまくってた時にずっと聴いていた『MONEY』が俺にとっての東京ソング」と述べている[136]


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