広島県竹原市生まれ[4]。広島県立呉三津田高校卒業[出典 2]、神奈川大学法学部中退。既婚。1975年、愛奴のメンバー(ドラムス・パーカッション)としてプロデビューし、1976年にシングル「路地裏の少年」とアルバム『生まれたところを遠く離れて』でソロデビュー。
マスコミや一部のファン等から「浜省」「ハマショー」という愛称で呼ばれている[出典 3]。 デビュー時からサングラスがトレードマーク[出典 4]。ライブを自分の音楽のよりどころと考え、アーティストはライブやCDで成立しなければならないというこだわりを持ち[出典 5]、直接歌を聴いてほしいとの思いから[8]、テレビ地上波出演は4回のみで[出典 6]、テレビの露出に頼らず[出典 7]、僅かな音楽雑誌のみを唯一音楽以外のメディアとして、その歩みを全うしてきた[出典 8]。自身の実体を大切にし続けながら[16]、地道なライブ活動によって確実にファンを獲得[出典 9]。デビュー後の数年間は、事務所の方針により自らが目指す方向性を屈折させられ逡巡していた[出典 10]。そのため、初期の頃は自分の生き方そのものへの懐疑を投げかけた楽曲が多く存在する。一般的に認知されているバラード楽曲[出典 11]の他にも父親の被爆体験から、日本や戦争を歌った楽曲も数多く存在し[出典 12]、プロテスト色の強いアーティストでもある[出典 13]。また、「ロック=英語」という既成概念に疑問をもち、日本語による歌詞や歌唱にこだわった。このことは以降のミュージシャンにも大きな影響を与えた。 山口百恵、和田アキ子、能瀬慶子、甲斐よしひろ、松田優作、時任三郎、吉田栄作、榊原郁恵、真田広之、烏丸せつこら、ホリプロ所属時代に多くの楽曲を提供している[出典 14]。 生家は現在も残っており、かつてファンクラブ誌上で訪問したことがある[36]。家族構成は本人、両親、姉2人。 父は戦前特高警察官[出典 15]、その後は地方警察署に勤務[出典 16]。竹原警察署勤務時代の1945年8月6日、広島市への原爆投下直後に救援隊として広島市に入り二次被爆した[出典 17]。浜田省吾は被爆二世にあたる[出典 18]。 父の転勤のため、3歳から尾道市、廿日市市、広島市佐伯区、広島市南区元宇品と広島県内で転校を繰り返す[出典 19]。
概要
来歴
幼少期