平成の大合併以前の旧浜松市の人口は約61万人、人口密度2368人/?[1]であり、旧浜北市との小規模合併のみで政令市移行の基準[注釈 1]を満たしていたが、財政が逼迫した北遠自治体等との大規模救済合併[2]により、静岡県では静岡市に次いで2番目の政令指定都市に移行した。ピーク時には81万人であったが、現在は80万人を割り込み79万人と減少傾向が続いている。全国の市町村で2番目の面積で3つの行政区を持ち、面積の約6割を天竜区が、人口の97%以上を天竜区を除いた2区が占めている[3]。湖西市にまたがって存在する浜名湖は、湖としては日本で10番目の大きさを持つ。
遠州地域(静岡県西部)における経済・文化・観光の中心となっており、浜松市を中心とする浜松都市圏は、都道府県庁所在地以外の都市圏で2番目の人口を有する[4]。また愛知県の東三河、長野県の南信州地域との結びつきも強く、これらの地域を総称し三遠南信と呼ばれる[5][6]。
ヤマハや河合楽器製作所、ローランドや鈴木楽器製作所といった多数の楽器メーカーが立地する「楽器の街」として知られ、「楽都」とも称される[7]。音楽文化活動も盛んでユネスコの創造都市ネットワークに音楽分野で加盟している[7]。また、世界的なオートバイメーカーである本田技研工業[注釈 2]、スズキ[注釈 3]、ヤマハ発動機[注釈 4]の創業地であり、「バイクのふるさと浜松」というイベントが毎年開催されている[8]。3社のうち、スズキは現在も浜松市に本社を置いている。東海工業地域の中核都市として工業が盛んであることから、日系ブラジル人など在留ブラジル人総数が全市町村の中で最も多い。在浜松ブラジル総領事館が置かれ、2001年には第一回外国人集住都市会議が開催されるなど、多文化共生が進んでいる[9][10]。また、同市はSDGs未来都市に選定されており[11]、パートナーシップ宣誓制度導入や積極的実証実験サポート事業など多様性ある持続可能な社会の実現に向けた取り組みが行われている[12][13]。
戦国時代には浜松城の城下町、江戸時代には東海道の宿場町(浜松宿)として栄えた。毎年開催される浜松まつりでは、3日間で約200万人の参加者が訪れる[14]。中心部の浜松駅前にはアクトタワー(アクトシティ浜松)など超高層ビルが林立し、三大都市圏以外では唯一の200m級スカイラインを構成する[15]一方、イオンモールなど多数の郊外型大規模商業施設の集積[16]や都田テクノポリスなど高度技術集積都市の開発[17]など郊外化が進んでいる。2020年に、政府から新興企業を生み出すための「グローバル拠点都市」に選定された[18]。 現在の東海旅客鉄道浜松工場一帯に広がる、7世紀後半?9世紀前半の古代敷知郡衙跡である伊場遺跡群から出土した木簡に「濱津郷(浜津郷)」と書かれたものがあり、古代には「はまつ」と呼ばれており、港や渡し場を意味する「津」が由来であったと考えられている[19][20]。何故「はまつ」が「はままつ」となったかは不明であるが、承平年間(931年?938年)に編纂された『倭名類聚抄』では「浜津」、弘安6年(1283年)頃成立の『十六夜日記』では「浜松」となっており、平安時代後半から鎌倉時代までの間に変移したと考えられている[21]。
浜松市中心部の夜景
大手通り
田町
遠州病院駅東側の業務集積地区
地名の由来
なお、徳川家康が一時期本拠にした浜松城は、それ以前は曳馬城と呼ばれていた。「曳馬」は「引間」という地名から転じたと推測され、近世以前は「引馬」と表記される文献も存在している。濱松荘と引間とは、地域が天竜川によって独立していた、もともと別の土地であった。引間の地において瀬名姫の先祖である今川貞相によって引間城が築城され、城の近郊に濱松という町があった。家康が曳馬城を元に増築した城を名付ける際、近郊の町の呼び名に因んで濱松城と改めたことで、城下町も濱松と呼称されるようになった。以後城名・町名ともに濱松(現在の浜松)として定着した。 太平洋ベルト沿いで東京と大阪の中間付近に位置し、南部の平野と北部の山間で構成されている。南部の平野は、沖積平野、海岸平野、台地(三方原台地)で構成され、県内自治体で最大の平地面積を持つ。面積は岐阜県高山市に次いで全国で2番目に広い。豊かな自然に囲まれており、北部は赤石山系、東部は全国でも有数の流域を持つ天竜川、南部は広大な砂丘(中田島砂丘)からなる遠州灘、そして西部は浜名湖と四方を異なる環境に囲まれている。
地理 三方原台地の様子。市内には坂や丘が多い。
位置