浜松城
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高力忠房

松平乗寿大給松平家

太田資宗→資次

青山宗俊→忠雄→忠重

本庄松平家松平資俊→資訓

大河内松平家松平信祝→信復

松平資訓→資昌

井上正経→正定→正甫

水野忠邦→忠精

井上正春→正直

構造本丸遠景(南から)
天守曲輪

天守周辺は天守曲輪と呼ばれ、本丸から独立した曲輪となっている。東西56m・南北68mのいびつな多角形で、東に大手として天守門、西に搦手として埋門が配されている。周囲を鉢巻石垣と土塀で囲み、土塀には屏風折などの横矢や武者走りが設けられるなど防御性の高い設計で、創建時には籠城戦を想定した場所だったと考えられている。

16世紀末に築かれた天守台が残されているほか、昭和33年に復興天守が建設され、2014年に天守門と付近の土塀が復元された。
天守模擬天守

天守は堀尾氏が治めた16世紀末に創建されたとみられるが、江戸時代初期には失われ、以降再建されなかった[3]。当時の天守の姿を伝える資料は残されていないが、同じ堀尾氏が治めた城で当時の天守が残る松江城は創建時の浜松城天守を参考に設計され、両者の関係が注目されている[6]

野面積みによる天守創建時の天守台が残されている。1辺約21mのややいびつな四角形で、西側に八幡台と呼ばれる突出部と、東側に付櫓と呼ばれる張り出し部分がある。天守台上部は安政の大地震後と復興天守建設時に積み直されたとみられるが、創建当時の姿がよく残されている。

現在天守台に建てられている建物は、昭和33年(1958年)4月26日に完成した鉄筋コンクリート造の復興天守である。地上3階地下1階建で、1-2階は徳川家康と浜松にまつわる歴史資料を展示する資料館、3階は展望台として使用されている。昭和31年1月に結成された浜松城再建期成同盟会が募金運動を展開し、集まった浄財をもとに当時の金額で1395万6千円を投じて建設された[7]。復興天守は名古屋工業大学で名誉教授を勤めた城戸久による設計で、丸岡城天守がモデルとされている[7]。建設にあたって天守台に対し2/3程度の大きさで建てられたため、史実の天守よりも小さな建物となっている[8]天守に隣接する八幡台
天守門

天守門は天守と同じ16世紀末に建てられた櫓門で[3]、天守曲輪の東側に位置する。改修・改築が行われながらも、廃城時まで存続した。江戸時代初期に天守が失われて以降は浜松城で最も高い位置にあり、江戸時代を通して浜松城を代表する建物であった。

取り壊される前の天守門の図面や古写真は見つかっていないものの、安政の大地震の被害状況を示した絵図や平成21年度から行われた発掘調査の結果をもとに、2014年に復元された。
埋門

埋門は天守曲輪の西側に位置し、西端城曲輪とを結んだ。浜松市は「遺構が残存していることが明らかであるため、他の遺構の調査と整備の進捗状況により、歴史的検証に基づいた復原計画を検討する」としている[7]

天守内井戸

本丸

本丸

天守曲輪の東側の一段低い場所に位置し、土塁と鉢巻石垣に囲まれていた。北側には富士見櫓、東側には本丸裏門、南東の隅には菱櫓、南側には鉄門と多聞櫓があった。江戸時代初期には徳川将軍家専用の御成御殿があったとみられるが、江戸中期には姿を消したと考えられている。

廃城後、本丸の西半分は浜松城公園となり富士見櫓の石垣などの遺構が残されているが、東半分は1960年代に本丸の地形を削り取る形で造成が行われたため姿を留めておらず、裏門・菱櫓・鉄門・多門櫓の遺構も失われた。跡地は道路と市役所となっている。
富士見櫓

富士見櫓は本丸の北側に位置する櫓で、現在は石垣と礎石の一部が残る。櫓の北側は厚い土壁を持たずに柱を見せた構造を持ち、前方に玉砂利の敷かれた御殿風の建物であり、17世紀中?後半に建てられたと推定されている[9]。18世紀後半以降の改修を経て、比較的長期間にわたり使用されており、富士山を長めながら茶の湯などが催されていたと推測されている[9]
多聞櫓

多聞櫓は、本丸と清水曲輪の間に位置し、東西に長い平屋の長屋で、東側には本丸への正門である鉄門が設けられていた。廃城後に櫓と石垣の大部分が失われたが、2014年に園路擁壁の内側から堀尾氏時代の石垣の一部が発見され、2020年の本丸南広場の整備に合わせて公開されている。
清水曲輪

清水曲輪は天守曲輪の南側を細長く囲んだ帯曲輪で、天守曲輪を守るため中土手を持つ空堀があり、東側に清水門があった。

北側は浜松城公園になっているが、清水門跡を含む南側は市街化されている。
西端城曲輪

西端城曲輪は天守曲輪の西側に位置する曲輪で、土塁と土塀に囲まれ、外端城曲輪に接続する端城門があった。

曲輪全体が浜松城公園となっている。
二の丸

二の丸は本丸の東側に位置し、藩主が政務や日常生活を営む二の丸御殿があったほか、東側に二の丸裏門、南側に本丸表門があった。

二の丸の跡は旧元城小学校敷地と市役所敷地の北半分にあたる。
二の丸御殿

二の丸御殿は払い下げによって解体されたが、詳細な絵図面が残されており、詳しい様子をうかがうことができる。
三の丸

二の丸の南東側に位置し、周囲を土塁と堀で囲まれ、重臣の屋敷が立ち並んでいた。三の丸の南側に浜松城の正門である大手門があった。

廃城後は土塁の撤去と堀の埋め立てが進み、完全に市街地化されている。大手門は現在の連尺交差点付近にあった。
出世城

冒頭で述べたとおり、一般的には数々の浜松城主が幕府の重鎮に出世した例が多いことから出世城とも呼ばれたとされるが[10][11]、一方で井上正甫のように不祥事を起こし左遷された例もある。

水野忠邦肥前国唐津を治めていたが、長崎の警備があるため一定以上の出世が困難であった。しかし、忠邦は幕閣として参画するために日頃から幕府要人に接待・賄賂攻勢をかけていた。幕府は事件を起こした正甫を左遷し、忠邦を浜松へ移した。忠邦は寺社奉行に出世し、更に文政11年(1828年)には老中となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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