凡例浅野 幸長
浅野幸長像(東京大学史料編纂所蔵)
時代安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕天正4年(1576年)
死没慶長18年8月25日(1613年10月9日)
改名長満[1](童名)、長慶→長継→幸長
別名左京大夫、紀伊守(通称)、長慶、長継
神号浅野幸長命(饒津神社)
戒名清光院殿前紀州太守春翁宗雲大居士
墓所大泉寺
浅野 幸長(あさの よしなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。紀伊和歌山藩初代藩主。浅野家15代当主。諱は長慶、長継ともいい、幸長は後年の名乗りである。 天正4年(1576年)、近江国滋賀郡坂本で浅野長政(長吉)の長男として生まれる[1]。童名を長満(ちょうみつ)[1]。初名を長慶(ながよし)といった[5]。 父・長政は安井重継と長勝の姉との間に生まれた子で、跡継ぎが夭折した長勝の養子となった。母・やや(長生院)の出生には2説あり、豊臣秀吉の正室・ねね(高台院 / 北政所)の実妹で叔母・七曲殿(長勝の後妻)の養女になったとも、長勝と樋口美濃守の娘(長勝の最初の妻)との間にできた実子ともいう[6]。ねねも長勝の養女であったことから、長政とは義兄妹の関係であり、いずれにしても、幸長は甥にあたる。 天正17年(1589年)4月、従五位下・左京大夫に叙任される[5][1]。 天正18年(1590年)、小田原の役で父に付き従って出陣[7]。これが初陣であり、当時15歳であった。5月、岩槻城を攻めに参加して、20日、本多忠政と共に大手口を破り、力戦した。戦功を秀吉に激賞され、滝川忠征を遣わしてのしつきの刀、脇差しを与えられた[1]。 文禄元年(1592年)、文禄の役では、肥前名護屋城に陣した[1]。しかし渡海する前に、6月に肥後国葦北郡佐敷で梅北国兼による梅北一揆が起きたので、秀吉は激怒してこの鎮圧を(肥後国人一揆の際に)案内役だった長政に命じ、鎮圧部隊の大将に幸長を指名した。また、秀吉は徳川家康に要請して副将に陪臣である本多忠勝を付けさせた。ところが、現地に到着する前に一揆は鎮圧されていたので、幸長は途中で来た道を戻って、朝鮮に渡海することになった。長政は奉行として一揆の沙汰を行った[8]。 幸長は朝鮮国都表出勢衆の一つとして兵3,000を率いた。
生涯
秀吉の一門衆