当時の女性アイドルは小柄であることが好ましいとされており、浅野のような長身で日本人離れしたプロポーションのアイドルは珍しかった。また、ミニスカートやホットパンツなどでスタイルを強調していた浅野は女性からの反撥を受けたこともあり、アイドル歌手としては大成しなかった[1]。一方、ルックスが大人びていた浅野は、中学生ながらテレビドラマ『太陽にほえろ!』に警察署・捜査第一係の2代目内勤員(お茶くみ)役として出演した[1][3]。映画『恋の空中ぶらんこ』以降、東宝の映画作品にも立て続けに出演したが[2][3]、役に恵まれず一時出演が途絶える[3]。 当時の女性アイドルで水着にならない者はほとんどいないため[9]、多少水着の仕事もあったが[9]、1979年(昭和54年)夏のカネボウ化粧品テレビCM「一気にこの夏チャンピオン」で披露した大胆な水着姿は世間を驚かせた[7][8][9]。プロポーションは当時から芸能界随一と噂されたが[8]、面積極少の三角巾風のブラとパンティは、際どいところを辛うじて隠す大胆なもので[8]、当時は東京都内の国鉄や私鉄、地下鉄の構内にポスターがよく貼られたが[8]、朝貼ると夕方までに全部盗まれて、マスメディアにも大きく取り上げられた[8]。前任者の服部まこのメッシュの水着もセクシーではあったが[7]、浅野はそれまでカワイ子ちゃん歌手のイメージがあったため[5][7]、極少水着のインパクトが大きかった[8]。勿論、浅野の起用はカネボウのイメージ戦略によるものである[5]。抜群のプロポーションで『週刊プレイボーイ』『平凡パンチ』『GORO』をはじめ、あらゆる雑誌のグラビアを席巻。またお茶の間を対象にしたテレビCMでは、セクシーな表現はそれまでタブーとされたが[13]、1981年から放映されたオーシャンウイスキー(メルシャン)のテレビCMは世の男性の目を楽しませ[6]、テレビCMでの大衆の許容度が拡がる切っ掛けとなった[13]。 歌を実質休業状態になった1980年代からは、様々な会社の水着キャンペーンモデルなど企業広告で活躍した。この頃、テレビの仕事は2時間ドラマが年2本程度だった。 しかし1988年(昭和63年)にフジテレビの連続ドラマ『君の瞳をタイホする!』のヒロイン・シングルマザー役に抜擢され、さらにドラマ『抱きしめたい!』で『W浅野』と呼ばれた浅野温子との競演で、女性からの圧倒的な支持を受けた。これ以降は「トレンディドラマの女王」と称される程にブレイクし、1990年代初頭には、W浅野を意識した服装が大いに流行した。 憧れの女優は、野際陽子である。また、野際も浅野を評価しており、自身が多くのドラマで幾度となく演じた姑役について、「私の後(の姑役)は、浅野ゆう子さんにでもお願いしようかしらね。」と、浅野を後継者にしたいと語っている。 俳優として駆け出しで、なかなか仕事に恵まれなかった頃の唐沢寿明に「爽やかな路線でいってみてはどうか?」とアドバイスをした結果、後のブレイクに繋がったとして「(浅野は)私の恩人」と著書で評されている。 2014年11月2日早朝に自宅で当時交際中だった俳優の田宮五郎がクモ膜下出血で倒れ、浅野に看取られ11月6日未明に死去した[1]。 デビュー当時は「脚の長さ99センチ」と騒がれ、一部マスコミから「股下99センチ」あるいは「股下1メートル」とまでいわれたが、『明星』誌上で読者からの「そんなにないのでは?」という質問に「股下ではないんです。腰骨から下が99センチなんです。ホントなのよ。信じてくださいね」と答えている(デビュー時は身長165 cm)。この「腰骨下の長さ」は年を経るにつれ、101 cm、はては107 cmまで伸びたと報じられた。 股下は『月刊プレイボーイ』に81.5 cmと書かれたが、他誌には83 cmと書かれたこともある。 岡田晋吉は『太陽にほえろ!伝説 増補決定版』で、「まだ十代の浅野ゆう子が『お茶くみさん』として出演している。彼女が石原裕次郎に会っての第一声が『あら、私のほうが股下が長い』だった。石原さんは目を白黒させていた。」と記している。 デビュー間もない頃の『うわさのチャンネル』出演中、和田アキ子やせんだみつお達に足の長さを冷やかされ思わず意味もわからず、「私、どて高なんです」と発していたことがある。また同番組では「むすんでひらいて」を歌唱中、「またひらいて」の歌詞の所で浅野一人だけが騙されて、大きく股を開いてしまった。 スタイリストの三宅由美子は「困ることもあるんです。まず、脚が長すぎること。既製品のパンツは短すぎてダメなんです」と語っている。
モデルから本格的に女優へ
人間関係など
脚に関するエピソード
その他エピソード
若い頃はものまね番組にも出演し、風吹ジュン等のものまねを披露していた。
1980年代後半から1990年代前半にデビューした俳優やお笑い芸人から「バブル期の大御所」、「ボディコンといえばゆう子」と言われている。バブル時代当時は「ボディコンゆう子」の異名が業界に浸透していた[1]。
1991年の『NHK紅白歌合戦』では鼻の骨を骨折していたが、気丈に隠しながら司会を続けた。
フジテレビ系『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に20回の出演となっている(2012年4月18日出演時点)。これは、和田アキ子(21回出演)に次いで、陣内孝則と並ぶ歴代2位の記録である。
マイケル・ジャクソンの大ファンだったので、1980年代の日本公演で追っかけをしたことがあり、神奈川県葉山のフランス料理店で食事を一緒にしたことがある[14]。
あまり知られていないが、若手時代、TBS系の長寿クイズ番組『世界・ふしぎ発見!』の準レギュラー回答者だった(3枠または5枠席)。これは前任の女性の準レギュラー回答者だった和田アキ子の事実上の後任として1986年10月から月1または月2ペースの出演だった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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