明治になり東京市15区の名前の一つに「浅草」が採用された。また、浅草寺を中心とした地区を近代的に公園化。それが日本初の都市公園の一つとされる浅草公園となった。浅草公園地を6つの区画に分けたことから、浅草公園地で最も賑わいを見せた繁華街を「浅草公園六区」と呼称するようになった。
浅草地域西端と下谷地域の境に当たる合羽橋道具街では厨房で使用する業務用調理器具関連用品を取り扱う個性的な商店街が存在。浅草地域南部には問屋街が広がっている。また「浅草花やしき」は日本最古の遊園地として知られる。
裏浅草(観音裏、奥浅草)と称されている浅草寺以北の浅草地域には多くの中小の工場や日雇い街、吉原跡には現在でも大規模なソープランド街が存在。浅草地域は様々な意味合いで下町らしさが色濃いエリアである。 浅草は古代の隅田川(古入間川)の河口近くに位置した。海の幸にも恵まれていた。浅草寺一帯は浅草台地の微高台で、現在の待乳山
歴史
古代・中世
628年推古天皇の時代、この土地の漁師、檜前浜成・竹成兄弟が、隅田川で観音像を網で掬い上げ、礼拝供養した(浅草寺の始まり)。下総国へ繋がる官道も通り、微高台は水害からも避難しやすく、町は発展した。
古代より浅草湊は、古入間川の河口に面し武蔵国の内部へ繋がる重要港だった[1]。石浜(現在の台東区橋場)や今津(現在の台東区今戸町)にあったとされる。浅草寺の門前町としても栄えた。
また、隅田川は江戸時代以前は武蔵国と下総国の境目であり、中世後期には浅草から石浜にかけて境目の城である石浜城が築かれていた(ただし、荒川区南千住に所在地を比定する説もある)。
確実な史料における浅草という地名の初見は、鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』である。1181年(養和元年)の条に、鶴岡八幡宮造営のため、武蔵国浅草の宮大工と招いたと記される[2]。地名の由来は『台東区史』沿革編(昭和41年)で諸説が紹介されており、草深い武蔵野で「草が浅く茂っていたから」という地形描写説のほか、「海を越す」を意味する「アツアクサ」というアイヌ語説や「聖者のいる場所」を意味する「アーシャ・クシャ」というチベット語説などがある[3]。
江戸時代.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに慶長見聞集の原文「武蔵と下総国さかひの事」があります。歌川広重『猿わか町の夜』。猿若町(現・浅草6丁目)には江戸三座があり、劇場街として賑わった
江戸時代に浅草が発展した要因は、浅草御蔵(蔵前)に米蔵が設置され、札差(株仲間)が登場してきたためといわれている。蔵前では、日本全国から集められた侍や江戸庶民たちの食用米、城で働く武士たちの給料としての米などを保管していた。いわば金蔵のようなもので、この米を守るために大勢の警備が配置され、下級役人が暮らしていた。
江戸時代、武士の給料は米で支払われていたため、武士たちのために米を保管するだけでなく現金にも替える札差という商人が出てきた。