浅草寺
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第二次世界大戦後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退した。しかし、地元商店街のPR活動等によってかつての賑わいを取り戻しつつあり、下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は多くの人出で賑わっている。
境内雷門仲見世通り宝蔵門本堂本堂外陣より内陣を見る。中央が秘仏本尊を安置する宮殿(くうでん)本堂天井画(川端龍子筆「龍図」、堂本印象筆「天人図」)五重塔(南側から見た全景)二天門浅草神社駒形堂 沙竭羅龍王像(原型高村光雲作)時の鐘影向堂六角堂久米平内堂浅草寺の古写真(日下部金兵衛撮影)
雷門詳細は「雷門」を参照

表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後は仮設の門が時折建てられていたが、昭和35年(1960年)に常設の門が鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したものである。門内には松下電器産業(現パナソニック)寄贈の大提灯がある。三社祭の時(神輿通過のため)と台風到来の時だけ提灯が畳まれる。

風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、明治7年(1874年)に補作。昭和35年(1960年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。門の背面の間には、「金龍・天龍」の像を安置する。西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻家・平櫛田中の作で、昭和53年(1978年)に奉納されたものである。
仲見世通り詳細は「仲見世通り」を参照

雷門から宝蔵門に至る長さ約250mの表参道の両側には土産物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世通り」と呼ばれている。商店は東側に54店、西側に35店を数える。寺院建築風の外観を持つ店舗は、関東大震災による被災後、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。

浅草寺は付近の住民に境内の清掃を賦役として課すかわりに、南谷の支院の軒先に床店(小屋掛けの店)を出す許可を与えた。貞享2年(1685)頃のことで、これが仲見世の発祥といわれている。
宝蔵門

雷門をくぐり、仲見世通りの商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。江戸時代には一年に数度2階部分に昇ることが可能であった。現在の門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財「元版一切経」の収蔵庫となっている。

2体の金剛力士像のうち、向かって左(西)の阿形(あぎょう)は仏師・錦戸新観、右(東)の吽形(うんぎょう)像は木彫家・村岡久作の作である。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}阿形像のモデルは力士の北の湖[要検証ノート]、吽形像のモデルは明武谷と言われている。門の背面左右には、魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられている。これは、前述の村岡久作が山形県村山市出身である縁から、同市の奉賛会により製作奉納されているもので、わら2,500kgを使用している[4]

わらじは10年おきに新品が奉納されているが、稲藁は長い方が加工しやすいものの、近年の稲作では全国的に稲藁の利用の激減や、風雨で倒れにくく収穫しやすいことから、丈の低い品種への品種改良が進んでいる。同市ではこのために丈の高い古い品種を特別に栽培している。

耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため平成19年(2007年)に屋根改修工事を行い、軽量さと耐食性に優れたチタン製のを全国で初めて採用した[5]。(カナメ社製瓦:TranTixxiiチタン素材使用)表面のアルミナブラスト加工をランダムに配置することで、土瓦特有の「まだら感」を再現している。また、主棟・隅棟・降棟・妻降棟すべての鬼飾もチタンで製作された。これ以降、境内の建物の瓦は順次チタン製に置き換えられている[6]
本堂

本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。再建にあたっては、建設資金を捻出するために瓢?池の敷地(2400坪)が江東楽天地などに売り払われた[7]

外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。内陣中央には本尊の聖観音像(絶対秘仏)を安置する八棟(やつむね)造りの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は上段の間と下段の間に分かれ、上段の間には秘仏本尊を安置する厨子を納め、下段の間には前立(まえだち)本尊の観音像(伝・円仁作)安置する。下段の間にはこのほか徳川家康徳川家光、公遵法親王(中御門天皇第二皇子、天台座主)がそれぞれ奉納した観音像が安置されている[8]

宮殿の扉の前には「御戸帳」と称する、刺繍を施した帳(とばり)が掛けられている。宮殿の手前左右には梵天帝釈天像が立つ。宮殿の裏には秘仏本尊と同じ姿という聖観音像(通称裏観音)、堂内後方左右の厨子内には本尊の脇侍として不動明王像と愛染明王像を安置する[8][注釈 2]

毎年12月12・13日に煤払(すすはらい)と開扉法要が行われる。本尊は絶対秘仏で公開されないが、「お前立」の観音像は12月13日午後2時からの開扉法要の際に一般の信徒も拝観することができる[9]


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