浅井長政
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美濃から帰還した賢政は佐和山城を奪還すると、磯野員昌を佐和山城に置くこととした[18]

永禄6年(1563年)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が六角氏当主の義治により殺害された(観音寺騒動)。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった。

観音寺騒動を受けて長政は高宮(現・彦根市)に出陣し、多賀大社に禁制、勝楽寺(現・甲良町)に安堵状を発している。六角氏の弱体化が、浅井氏が現在の多賀町・甲良町域に勢力を拡大する結果を招いたのである[19]

その後は六角氏との停戦協議により、膠着状態が続いた[要出典]。
織田信長と同盟.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}お市の方像は対の掛け軸となっている。(高野山持明院像).mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに浅井日記の原文があります。

1560年代織田信長は、美濃斎藤氏との膠着状態を打破するため不破光治を使者として送り、長政に同盟を提案した。

同盟に際して織田・浅井の両家は政略結婚をした。すなわち信長の妹・の長政への輿入れである[20]。この婚姻の時期については、市の出生年・市が初婚か否か・茶々の出生年・萬福丸が市の子かといった議論と関連し、諸説あって確定していない。

永禄2年6月婚約、永禄4年成婚説 - 『川角太閤記』・『東浅井郡誌』[21][22]

永禄2年6月?永禄6年説 - 宮島敬一『浅井氏三代』[23]

永禄6年説 - 高柳光寿『青史端紅』

永禄7年3月説 - 『続応仁後記』・『浅井三代記』・田中義成『織田時代史』・桑田忠親『淀君』

永禄8年説 - 高澤等『新・信長公記』[注釈 6]

永禄10年9月ごろ - [26]

永禄10年末?永禄11年ごろ説 - 奥野高廣「織田信長と浅井長政との握手」[27]

永禄11年4月下旬説 - 『総見記』・小和田哲男『近江浅井氏の研究』[28]

織田・浅井の同盟により、信長は上洛経路ともなる近江口を確保し、美濃国攻略の足掛かりとした。信長は同盟成立を喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている。結婚に際して、信長の一字を拝領し、長政と改名したともされる[29][30][31]。さらに賢政時代の花押をやめて、「長」の字を右に倒した形の花押を作った[32]

永禄11年(1568年)7月、越前国に滞在していた足利義昭は、一向に上洛の意志をみせない朝倉義景に見切りをつけ、信長の元に身を寄せた[33]。8月、信長は上洛のための経路を確保する交渉を六角義賢・義治と行うため佐和山城に入るが、『総見記』ではこの時初めて長政と信長が対面したとしている[34]

翌月、信長は上洛を開始し、8日には徳川家康の援軍を伴い高宮に到着、浅井長政もここに参陣した[35]。13日には観音寺城に入り、六角義賢・義治は甲賀郡に撤退した(観音寺城の戦い[36]。そして9月26日に入京、10月18日には義昭が征夷大将軍に任じられた。

上洛を果たしたことで、功績のあった伊丹親興池田勝正和田惟政松永久秀などには行賞があったにもかかわらず、長政への行賞の記録はない。長政がのちに信長に刃向かったために記録が現代に伝わらなかったと解することもできるが、小和田哲男はここで特段の恩賞が与えられなかったことが、離反の伏線となった可能性を指摘している[37]
同盟破棄・信長包囲網

元亀元年(1570年)4月下旬、信長が徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過し、若狭および越前の朝倉方の城の攻略に乗り出したところ、長政は突如同盟関係にある信長を裏切り、織田・徳川軍の背後から軍勢を攻めかからせた。予期せぬ長政の裏切りで窮地に陥った信長だったが、殿を務めた木下秀吉らの働きにより退却には成功した(金ヶ崎の戦い)。

この裏切りについては、信長も当初理由が分からず「虚説たるべき」(『信長公記』)ととりあわなかったが、現在においても理由については以下のように諸説あり確定していない。
朝倉氏との同盟関係を重視した。これは江戸時代の創作物が由来であり、学術的にはこの裏切り以前における朝倉氏との同盟関係の存在は亮政・久政の代を通じて否定されている[38]。ただし、この問題に関しては、前述のように、長政が六角氏から自立した際に義景と従属関係を結んだことによって初めて両氏の関係が結ばれたとする説も出されている[11]

朝倉氏が討伐された後、自分たちが攻められるのではないかと疑心暗鬼になった。『当代記』『総見記』にみられる。

信長と長政の関係が、対等な同盟ではなく主従関係に近く、信長が長政を軽んじた[39]

朝倉義景・浅井長政・六角義賢が足利義昭から御内書により指示を受け、連携して信長を排除しようとした。『朝倉始末記』から六角氏・朝倉氏・浅井氏が連絡を取り合って信長に戦いを挑んだことが読み取れることによる説[39]

信長の政権構想に長政が付いて行くことができなかった。信長の政権構想が具体化していく一方で、浅井氏は国衆を基盤に権力を構築していたことから、「天下静謐」「天下布武」のような以前の戦いとは異なる目的での度重なる軍事動員に耐えられなかった[40]

敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政が居たという記録はない。また、そもそも織田と浅井の同盟自体が存在せず、金ヶ崎の戦いでの織田軍は、目的を達して凱旋中に浅井氏の挙兵を知ったという説もある[注釈 7]。一方で、この戦い自体が若狭国の支配を巡って義景と対立を深めていた足利義昭による討伐の命令に基づくものであった[注釈 8]とする説もあり、将軍の命令には従わざるを得なかった信長からすれば長政の行動は理不尽であったとする見方もある[41]

同年6月、長政は朝倉軍とともに、近江国・姉川で織田徳川連合軍と戦う(姉川の戦い)。結局この戦は、織田徳川連合軍の勝利に終わった。なお、当時浅井軍の足軽だった藤堂高虎は姉川の戦いに参戦し、織田軍に対し武功を上げて、長政から感状を送られている。

姉川の戦いの後、信長に脅威を覚えた三好三人衆や本願寺が挙兵し(野田城・福島城の戦い)、反信長の意志を表した(信長包囲網)。

9月、朝倉軍や延暦寺・一向宗徒と連携し、再び信長への攻勢を強め(志賀の陣)、坂本において森可成織田信治らを討ち取る。


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