浅井長政
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ところが3月、その隙を狙って六角義賢が佐和山城を攻め、佐和山城主百々内蔵助は討ち死にした[18]。美濃から帰還した賢政は佐和山城を奪還すると、磯野員昌を佐和山城に置くこととした[18]

永禄6年(1563年)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が六角氏当主の義治により殺害された(観音寺騒動)。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった。

観音寺騒動を受けて長政は高宮(現・彦根市)に出陣し、多賀大社に禁制、勝楽寺(現・甲良町)に安堵状を発している。六角氏の弱体化が、浅井氏が現在の多賀町・甲良町域に勢力を拡大する結果を招いたのである[19]

その後は六角氏との停戦協議により、膠着状態が続いた[要出典]。
織田信長と同盟.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}お市の方像は対の掛け軸となっている。(高野山持明院像).mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに浅井日記の原文があります。

1560年代織田信長は、美濃斎藤氏との膠着状態を打破するため不破光治を使者として送り、長政に同盟を提案した。

同盟に際して織田・浅井の両家は政略結婚をした。すなわち信長の妹・の長政への輿入れである[20]。この婚姻の時期については、市の出生年・市が初婚か否か・茶々の出生年・萬福丸が市の子かといった議論と関連し、諸説あって確定していない。

永禄2年6月婚約、永禄4年成婚説 - 『川角太閤記』・『東浅井郡誌』[21][22]

永禄2年6月?永禄6年説 - 宮島敬一『浅井氏三代』[23]

永禄6年説 - 高柳光寿『青史端紅』

永禄7年3月説 - 『続応仁後記』・『浅井三代記』・田中義成『織田時代史』・桑田忠親『淀君』

永禄8年説 - 高澤等『新・信長公記』[注釈 6]

永禄10年9月ごろ - [26]

永禄10年末?永禄11年ごろ説 - 奥野高廣「織田信長と浅井長政との握手」[27]

永禄11年4月下旬説 - 『総見記』・小和田哲男『近江浅井氏の研究』[28]

織田・浅井の同盟により、信長は上洛経路ともなる近江口を確保し、美濃国攻略の足掛かりとした。信長は同盟成立を喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている。結婚に際して、信長の一字を拝領し、長政と改名したともされる[29][30][31]。さらに賢政時代の花押をやめて、「長」の字を右に倒した形の花押を作った[32]

永禄11年(1568年)7月、越前国に滞在していた足利義昭は、一向に上洛の意志をみせない朝倉義景に見切りをつけ、信長の元に身を寄せた[33]。8月、信長は上洛のための経路を確保する交渉を六角義賢・義治と行うため佐和山城に入るが、『総見記』ではこの時初めて長政と信長が対面したとしている[34]

翌月、信長は上洛を開始し、8日には徳川家康の援軍を伴い高宮に到着、浅井長政もここに参陣した[35]。13日には観音寺城に入り、六角義賢・義治は甲賀郡に撤退した(観音寺城の戦い[36]。そして9月26日に入京、10月18日には義昭が征夷大将軍に任じられた。

上洛を果たしたことで、功績のあった伊丹親興池田勝正和田惟政松永久秀などには行賞があったにもかかわらず、長政への行賞の記録はない。


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