浄岸院
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天英院の縁故により、享保14年(1729年)6月4日に島津継豊と縁組が成立した[2][注 1][7][4]。同年12月11日、入輿した[3][4][2]

継豊の父の島津吉貴の友人である老中の松平乗邑の斡旋もあり、さらに天英院が実家の近衛家を通してまで縁談を持ちかけてきたため、近衛家と婚姻関係が深い島津家は断り切れなかったといわれている。将軍家息女の婚家先には多くの経済的・精神的負担がかかるため、財政難であった薩摩藩にとってこの縁組みは災難以外の何物でもなかった。加えて継豊は病弱である上に、側室腹とはいえ長男の益之助(のちの宗信)が誕生したばかりであったため、島津家は、もし竹姫に男子が誕生しても、継嗣にはしないなどの条件をいくつも要求した。

吉宗や幕府もこれを無条件に受け入れ、結婚当時は夫となる島津継豊が未だ四位以上に任官していなかったにもかかわらず、「夫が四位以上の将軍家出身の姫」に与えられる「御守殿」の敬称の名乗りを許すなど、異例の厚遇を与えた。また、竹姫の住まい用として芝屋敷の北側に6千890坪の屋敷地を無償で下賜された。さらに婚姻後(12月16日)、継豊は従四位上左近衛中将に昇進され[4]玉川上水を芝の薩摩藩邸に分水することが許されるなど、特別な利権を多く獲得した。

継豊との間に一女(菊姫)を儲け、この娘はのちに福岡藩藩主黒田継高世子重政に嫁いた[8]。また竹姫は嫡母として益之助(島津宗信)や義理の孫に当たる島津重豪の養育に携わった。重豪は薩摩の気風を嫌い、言語・作法を京・上方風に改めるべき命を出すなど開化政策を推進するが、これは竹姫の影響を受けたからであると言われている。竹姫は島津家へ嫁いでから44年間、継室として、徳川家と島津家の婚姻関係の強化に努めた。

後に隠居した継豊は鹿児島に帰国したが、竹姫は江戸に留まり、10年後に継豊が鹿児島で没するまで再会することなく別居生活を送った。

宝暦10年(1760年)9月20日、継豊が死去[3](「徳川幕府家譜」は10月29日逝去としている[2][注 2])したため、落飾し浄岸院殿と称した[2]

安永元年(1772年)12月5日、死去[2][3]。68歳[4]法名は浄岸院殿信誉清仁裕光大禅定尼[3](『寛政重修諸家譜』では、信誉清仁祐光浄岸院[4])。鹿児島福昌寺に葬られた[4][2]
逸話

浄岸院は将軍家の養女という立場を大いに利用し、島津家と徳川家の婚姻関係を深める政策を進め、薩摩藩8代藩主・宗信の正室に
尾張藩藩主・徳川宗勝の娘・房姫と婚約させ(寛延元年、輿入れ前に房姫が死去。寛延2年には房姫の妹・邦姫と宗信の婚約の話があがったが、今度は宗信が死去)、義理の孫で9代藩主・島津重豪の正室に一橋徳川家の当主・徳川宗尹の娘・保姫を迎えさせている。これらの婚姻により、島津家と徳川家との縁戚関係が深まった。

浄岸院の死後、その遺言として、当時の薩摩藩主・重豪の娘茂姫(広大院)と11代将軍徳川家斉(婚約当初は一橋家世子)との縁組が行われた。この縁組はのちに、天璋院篤姫が島津分家の出身でありながら、島津本家(斉彬)養女・近衛家養女という格式を踏みながら、徳川将軍家(家定)の正室になる前例を作った。

浄岸院やその他のこれらの婚姻の結果、外様であった薩摩藩の幕府に対する発言力が大いに増すこととなり、幕末に薩摩藩が台頭する大きな要因の一つになった。

徳川宗直の娘で吉宗養女となり、仙台藩伊達宗村の正室となった利根姫とは養姉妹関係にある。

東京都目黒区祐天寺阿弥陀堂は,竹姫が、享保9年(1724年)厄除けの為に造営・寄進した堂宇と伝えられる。寺録にはその由来と合わせ,寄進時、施主竹姫の御髪を収めた石箱が須弥壇の下に埋設されたことも記されている。2014年、改修工事のため阿弥陀堂が一時移設されたところ、寺録に記されている通り、須弥壇の真下に当たる位置に基壇に埋設された石箱が現れ、その内部から頭髪と板材片、白色の粉塊、懐中鏡などの遺品が発見された。

尚古集成館蔵「葵牡丹紋七宝繋蒔絵雛道具」(鹿児島県指定文化財)は竹姫入輿の際の持参品であると伝えられている(異説あり)

登場作品
テレビドラマ

大奥 (1968年関西テレビ 演:野添ひとみ

水戸黄門 第6部第8部1975年1978年TBSC.A.L 演:鳥居恵子

吉宗評判記 暴れん坊将軍 (1980年・テレビ朝日 演:中島ゆたか

大奥 (1983年・関西テレビ 演:水沢アキ

暴れん坊将軍3スペシャル (1989年伊藤かずえ

八代将軍吉宗 (1995年NHK大河ドラマ 演:森口瑤子

暴れん坊将軍IX  (1998年・テレビ朝日 演:久我陽子)

徳川風雲録 八代将軍吉宗 (2008年テレビ東京 演:田中美里

大奥 最終章 (2019年フジテレビ 演:浜辺美波

脚注
注釈^ ただし、「徳川幕府家譜」では、相手を継豊ではなく、松平大隅守(黒田)継高としているので注意[2]
^ ここでも継豊ではなく「継高」としているので注意[2]

出典^ 続群書類従完成会 1964, p. 351.
^ a b c d e f g h i j k l m n o p 続群書類従完成会 1970, p. 53.


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