流罪
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とはいえ、古代中国社会にあった追放刑は小規模な国家群に分立して他国への逃亡がしやすくなった春秋戦国時代にはほとんど行われなくなったとみられ、後世の流刑との直接的なつながりは存在しないとされている。
流刑成立以前

秦漢以後に「遷刑」と呼ばれる刑が登場する。この刑はしばしば流刑と混同されることが多いが、実際のこの刑は社会からの隔離を意図したものであって、必ずしも遠方・辺境への移動を意味するものではなく、癩病のような伝染病の感染や親不孝などを理由として行われる場合もあった(睡虎地秦簡「法律答問」「封診式」)。また、当時は肉刑・城旦刑などが死刑の次に重い刑とされ、遷刑はそれよりも軽い刑と考えられていた。秦や漢では政治犯や廃された諸王がの地に移される事例がみられるが、これも蜀が辺境だからではなく、周囲を山で囲まれた隔離された土地であったからとみられている。前漢に入ると肉刑が廃止されたことにより、死刑と労役刑の中間にあたる刑が存在しないことになった。そこで死一等を減ずる刑として登場したのが辺境に罪人を移す「徒遷刑」と呼ばれる刑である。ただし、これも辺境に隔離して労役刑に服させることを目的としており、後世の流刑とは異なるニュアンスを含んでいた。また、徒遷刑は(死刑の)代替刑としての立場を崩すことなく、後世の流罪のように主刑と成り得なかった。
北魏による「流刑」の導入

北魏の太和16年(492年)、孝文帝の下で新たな律が定められ、ここで初めて後世知られるような主刑としての「流刑」が登場する。新しい律はこの年の4月に制定されたが、翌月になって孝文帝が詔によって自ら追加したのが流罪の規定であったという(『魏書』巻7下、高祖紀)。北魏では前代以来の徒遷刑が文成帝の時代に終身刑の要素を加えた代替刑「徒辺」として実施されていた[注釈 1]。が、ここにおいて主刑としての流刑が登場して死刑の次に重い刑として位置づけられたのである。

その後、北魏は分裂して北斉北周となるが、北斉では労役として配流先での戌辺(兵役)と組み合わされ、北周では罪の重さによって流される距離に差異を置く規定(北周では5段階)が加えられた。両国に代わって北朝を再統一したが流罪を1つの体系の元に整理し、更に南朝を征服してその支配地域にも流罪を適用していくことになる。隋の制度では北斉・北周の制度を受け継ぎつつも、いくつかの手直しも図られた。まず、罪によって配流する距離を3段階(千里・千五百里・二千里)に整理して、また配流先での居作(兵役を含めた労役)も最高3年(徒刑における最高刑と等しい)を併せて課した。その上で一度配所に到着した流人は恩赦があっても特別なこと(流人の帰還が明記されているなど)がない限りは郷里への帰還が許されなかった。また、事情によっては居作は課すものの、配流を行わずに罪に応じた杖刑によって代替されるケースもあった(隋独自の規定である。以上、『隋書』刑法志)。北魏から隋にかけて、戸籍などが整備されて民を特定の居住地に拘束して他の地域への自由な移動が禁止される(役人や商人などにならない限りは一生故郷で過ごす)ようになった状況下で、見たことも無い他の土地へ強制的に移されることは威嚇効果としては相当のものがあった。また、本来死刑と徒刑などの労役刑との中間の刑罰にあたる肉刑の復活が困難な状況において、儒教の経典である『尚書』の故事を根拠として用いることが可能な(儒教道徳的見地から批判される可能性が低い)流刑を新たに導入することで死刑と労役刑の間の大きすぎる格差の解消をもたらす意味もあった。
唐代の流刑

続く唐代の流刑は日本の流罪にも大きな影響を与えたが、その特徴として以下の原則があったことが知られている。

罪の重さによって二千里・二千五百里・三千里の距離に分けられる(当時の唐の1里は約560m)。その基準に関しては、元の居住地とする説と都(
長安)であるとする説がある[注釈 2]

配所にて、首枷を付けられた上で「居作」と呼ばれる強制的な労役を1年間科された。なお、三千里の配流に処せられた者のうち、特に罪が重い者は「居作」は3年間とされた。これを加流刑と称する。

流人の妻妾は必ず配所に同行しなければならない。ただし、父祖・子孫は希望によった。

居作の終了によって流刑は終了するが、そのまま現地の戸籍に附されてそこの民として残る人生を送ることになり、二度と元の居住地(大抵は故郷にあたる)に戻ることは許されなかった。

反逆罪やそれに連座した者(死刑から死一等を減ぜられて流刑になった者を含む)を除いては、配所到着から6載後(6回目の新年を迎えた後、6年後ではないことに注意)を経た者は仕官を許される(ただし、法によらず皇帝の意向で流刑にされた場合は3載後に短縮される)。

流内官品を持つ官人は「五流」と称される5つの罪(加流刑に相当する罪、反逆への連座、過失によって父祖を死傷させる罪、十悪の1つである不孝の罪、恩赦にあっても猶流刑に相当する罪)に該当しない限りは実際に流罪にはならない。流罪の場合は除名となり、官爵は剥奪されるが、居作は免除される。

以上の規定にもかかわらず、皇帝の判断によって流罪に相当しない者の刑が重くなって流刑にされたり、新たに法令として格に追加されたりした。その場合、五流に相当しない官人でも除名・官爵剥奪の上で配流されることがある。また、刺史や上佐(別駕・長史・司馬などの地方における上級の補佐官)に貶官(左遷)させる処分が流刑の代替として行われることもあった。

とはいえ、流刑自体が儒教経典を根拠とする刑罰であり、その規定は社会の実情どころか、律令の他の規定とも整合性に欠ける場合があったために、唐における流刑の諸原則が確定した貞観11年(637年)制定の貞観律の制定からわずか3年後には実際の配所は特定の辺境の州に限定されることになり、距離別の規定が空文化した(罪が重ければ、より辺境に流されることにはなっていたが)。また、流刑に対する恩赦は配所到着前でなければ有効とされていなかったが、皇帝が恩赦の際に流人に対する恩赦の文言を加えることで有効とされ、実際に皇帝の恩恵を示すために流人の放還(元の居住地への帰還)や量移(都に近い場所への変更)が行われていた。更に配流された官人が6載後に再度仕官が許されると言う原則は実は流刑の本質と矛盾するものであった。すなわち、役人は自由な移動を禁じた律令の規定の対象外であり、再度仕官となれば配所から離れることが可能であったからである。更に理論上では庶民も商人などのように官の特別な許可があれば移動が可能であったから、配所における居作を終えて現地の戸籍に登録された元流人がその規定を利用して配所を出る可能性もあった。こうした矛盾を解消するために元和8年(813年)に6年過ぎた流人の放還が認められ、開成4年(839年)に制定された開成詳定格によって法令として正式に規定された。もっとも、この時期になると地方政治の混乱によって配所の地方官が流人の管理を行わずに、勝手に配所を抜け出して故郷に舞い戻ったり他所に放浪したりすることが行われ、終身にわたって配所に置いておくこと自体が困難になってきたことが背景としてあった。そして、黄巣の乱以後の一層の社会的混乱によって罪人の管理が困難になると、徒刑や流刑のような執行完了までに時間がかかる刑罰が敬遠され、杖刑や死刑による対応へと移ることになった。
宋代の配流と配軍

宋代になると律令が再び整備されたものの、唐末以来の過酷な規定が残されたままであり、多くの死刑囚を生み出していた。それを緩和するために出されたのが、折杖法である。折杖法によって本来流刑にされる者は脊杖(背中打ちの刑)+在所での配役(強制労働)1年(加流刑の場合は3年、女性の場合は淳化4年(993年)以降は免除)によって代替されることになり、実際に配流されることはなくなった。代わって、従来死刑に処せられることになっていた者(通常は律本来の規定にはなく、特別法である格や勅による規定で死刑にあたる者)が皇帝の特恩によって、反対に皇帝によって配流相当とされた政治犯などがその特旨によって配流されるようになった。

宋代における配流およびその関連用語を一括する言葉として、編配と配隷という語がある(どちらも単独の刑罰を指す言葉ではないことに注意)。編配は「配流・配軍・編管」、配隷は「配流・配軍・配役」をまとめた総称にあたる。

このうち、配流が本来宋代における流刑に相当するものである。配流に先立ってまず死刑判決が出され、脊杖20回と刺面(顔に入れ墨を施す)を行なった後に皇帝に死刑判決の確認を求める奏裁を行うために、都(開封、後に臨安)に赴闕(都への護送)が行なわれる。そこで罪人は皇帝に謁見して皇帝より「罪一等減じる」との勅が授けられ、枢密院によって具体的な配流先が決められ(ただし、ここまでの手続は形式として整ったものであり、景徳3年(1006年)以後は冤罪を訴える者など実際に再審理の必要性があるものを除いて皇帝への謁見は省かれた)、唐代と同様に官の監視の下に首枷をはめられて労役に従事した。


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