津川雅彦
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津川 雅彦(つがわ まさひこ、1940年昭和15年〉1月2日 - 2018年平成30年〉8月4日[1])は、日本俳優映画監督芸能プロモーター・時事評論家

芸能事務所グランパパプロダクションに所属し、同社の代表取締役を務めた。位階は従五位

俳優としては1956年の映画『狂った果実』が本格デビューであり、1959年に木下恵介監督の『惜春鳥』、1960年には大島渚監督の『太陽の墓場』など多くの話題作に出演[2]80年代以降は『マルサの女』(主役の板倉亮子(宮本信子)の上司役)『スーパーの女』(スーパー「正直屋」の専務役)など伊丹十三監督作品に多数出演し存在感を示した[2]。1999年には『プライド・運命の瞬間』で東條英機役を演じ日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞[2]。2000年にはNHK大河ドラマ『葵 徳川三代』で主役の徳川家康を演じた[2]。映画監督としてはマキノ 雅彦(マキノ まさひこ)を名乗り、3本の作品を監督した[2]

俳優業のかたわら、おもちゃの「グランパパ」の経営を行ったり、スコットランドの古城「ロックハート城」を解体し日本へ移築することを試みるなど、経営者や事業家としての一面もあった。→#経営者・事業家
生涯

歌舞伎役者の澤村国太郎を父に、女優のマキノ智子を母に、本名は加藤 雅彦(かとう まさひこ)として、誕生。祖父は映画監督の牧野省三であり、演劇人一族、芸能一家の一員として育つ。兄は俳優の長門裕之(本名:加藤晃夫)。その他の身内についてはマキノ家を参照。京都府京都市中京区で生まれ育つ。

兄同様に子役として数本の映画に出演していた。

本格的な銀幕デビューは16歳のとき、1956年日活映画『狂った果実』である。この映画が本格的な主演デビューとなる石原裕次郎の弟役を探していた石原慎太郎が一目見て気に入り、沢村家に頼み込んで強引にキャスティングして名付け親ともなった。当時津川は新聞記者に憧れて早稲田大学高等学院に在学しており、「夏休みだし1本くらい出てもいいか」と軽い気持ちだったというが、映画のヒットとともにたちまちスターダムに上り詰めた。人気絶頂の1958年松竹へ移籍したがヒットに恵まれなかった。

フリーに転身してテレビなどに活動の場を広げるものの、1969年のデヴィ・スカルノとの不倫騒動をきっかけに仕事が激減。窮地に陥っていたところ、1972年から開始された必殺シリーズ悪役に起用され、再びブレイク。演出を担当した松本明から「世の中のみんなはお前が嫌いなんだから殺される悪役をやれ!」と言われて起用されたが、かつての美男スターのプライドを捨てて悪役をこなす中で多くを学んでいったという[3]

1973年に女優の朝丘雪路と結婚。

1982年、『マノン』で第24回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞。

叔母の沢村貞子からは「雅彦、お前は顔がいいんだから、芝居は4倍うまくならないと認めてもらえない」と若い頃に口酸っぱく忠告されていた。20代半ばに差し掛かる頃より徐々に肥え始め、それに伴い独特の癖のある風貌が強くなっていったが、逆にその個性を活かした[4]

ジェームス三木作品に多く出演しているほか、1985年の『ひとひらの雪』を始めとする渡辺淳一作品[注 1]や、『お葬式』『マルサの女』等の伊丹十三監督作品[注 2]の常連出演者であった。ジェームズ三木、渡辺、伊丹の3人を自分にとって「三種の神器」のような存在であり、彼らなくして今日の自分はなかったとしている[5]

時代劇では三英傑織田信長豊臣秀吉徳川家康)をすべて演じている他、徳川氏の役を演じることが多く、大河ドラマでは『独眼竜政宗』等で家康、『八代将軍吉宗』で綱吉、『勝海舟』で一橋慶喜を演じている(後述)。

2014年春の叙勲では旭日小綬章を受章[6]


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