津島恵子
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一方、6歳、自由ヶ丘幼稚園の時から舞踊を始め[7][8]、同園および自由ヶ丘小学校にて宮操子から舞踊を学ぶ。のち、宮が四谷に研究所を設けたため、四谷第三小学校に転校して、同所に通う[注釈 7]。戦後、江口隆哉・宮夫妻主宰のノイエタンツ研究所でモダンダンスを学ぶ[9][注釈 8]1945年には、舞踊の地方公演に参加[10]。松竹の大船撮影所1947年より舞踊教師を務め始め[7][11][注釈 9]、同年、吉村公三郎に見出されて[1][12]、女優として映画出演を開始する。


1947年松竹作品『安城家の舞踏会』でデビュー、以降、松竹専属となる。1948年美空ひばりの主演第一作『悲しき口笛』に出演[注釈 10]1950年、『歸ク』に出演[注釈 11]1951年公開の『乾杯! 若旦那』からは鶴田浩二とのコンビで人気を得る[注釈 12]

1953年1月公開の、今井正監督の『ひめゆりの塔』にて初めて他社(東映)の映画に出演し、代表作の一つになる。

1953年3月松竹を退社してフリーとなり[13][注釈 13]黒澤明監督の『七人の侍』などで好演[注釈 14]1955年の『たそがれ酒場』では、踊りの振付を自身で考案する[注釈 15]

1957年、当時の東宝副社長・森岩雄の子息(森伊千雄)と結婚したのを機に一時的に映画界からは遠ざかるが、1970年代にテレビドラマへカムバックする。

2002年のNHK連続テレビ小説さくら』を最後に女優業を休止[14]2007年頃から認知症の症状が出ていたとされ[14]2012年8月1日午前10時20分、胃がんのため東京都内の病院で死去[15]。86歳没。
ギャラリー

1949年

『サンケイグラフ』1954年10月3日号より

『サンケイグラフ』1954年10月31日号より

七人の侍』クランクイン直前の1953年5月、東宝撮影所で打ち合わせをする黒澤明三船敏郎、津島、志村喬

エピソード

代表作の一つである『
七人の侍』で志乃を演じたが、監督の黒澤明は「僕の書く女だから一本の線でグッと押して來るようなタイプなんだが、津島くんてお行儀のいい人だな。」と語っている[16][注釈 16]

出演
映画『魔像』(1952年)『ひめゆりの塔』(1953年)『魅せられたる魂』(1953年)七人の侍』(1954年)

安城家の舞踏会(1947年、松竹) - 新川曜子

われ泣きぬれて(1948年、松竹) - 石川節子

偉大なるX(1948年、松竹) - 千代

戀愛特急(1948年、松竹) - 昌江

初夜ふたゝび(1949年、松竹) - 田島の妻

君待てども(1949年、松竹) - 光子[17]

悲恋模様(1949年、松竹) - 朱実

彼女は答える(1949年、松竹) - 雪枝

悲しき口笛(1949年、松竹) - 勝川京子

花も嵐も(1949年、松竹) - 潤子

宵待草恋日記(1950年、松竹) - 荒木夏枝

夢を召しませ(1950年、松竹) - 松村翠

危険な年齢[注釈 17](1950年、松竹) - 千恵

長崎の鐘 (1950年、松竹) - 山田幸子

花のおもかげ(1950年、松竹) - 江原雪子

帰郷 (1950年、松竹) - 守屋伴子

女の水鏡(1951年、松竹) - 藤倉紀み子

乾杯! 若旦那(1951年、松竹) - 山里あき子

虎の牙(1951年、松竹) - 園原富美子

美しい暦(1951年、松竹) - 村尾先生

若い季節(1951年、松竹) - 葉山道子

純白の夜(1951年、松竹) - 岸田露子


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