学習と告白によって作られた服従は、洗脳の短期的目標であり、この段階ではまだ真の「生徒」ではない[8]。 真実のもので、透明なものとされる「学習」とは、中国共産党側の政治的教育のことである[8]。「告白」(認罪)は、儀礼的統合である[8]。中国共産党による改造では、学習会の出席者は、個人の自我を保持することは、統制された全体の合意によって危険なものとされた[8]。
朝鮮戦争は、アメリカが「かわいそうな朝鮮や中国」に対する戦争であると宣伝され、中国にいる人々は、その蛮行の目撃者であると思いこむようになった[11]。
ハンターは1958年3月13日にアメリカ合衆国の下院非米活動委員会で中国共産党の心理戦について報告した[12]。 1954年-1955年に、香港で行った調査を基に、心理学者であるロバート・J・リフトン(ニューヨーク市立大学教授)は著書『思想改造の心理』の中で精神医学的観点から「洗脳」と言われる過程の分析を試み、中国共産党による「思想改造]や「洗脳」を全体主義社会における心理として最も効果的な手段を持ったとした[13]。 リフトンによると、洗脳のテクニックには8つの要素がある しかし、洗脳の効果についてリフトンは、帰国後、元捕虜が共産主義者として活動したのは一部であることなどから、洗脳プログラムは失敗である、とした[14]。 第二次世界大戦が終了した1945年に、日本人捕虜の一部はソ連の極東シベリア(ハバロフスク)地区捕虜収容所に監禁された[15]。シベリアで日本人捕虜は、厳寒のなか強制労働、飢餓、取り調べ、旧日本軍の民主化運動で批判されるなど苦しんだ[16]。1950年7月には、前年に成立した中華人民共和国の撫順戦犯管理所に日本人捕虜が移管された[15][17]。手厚い対応を行い、十分な食事が与えられ、強制労働もなかった[17]。 「正しい思想を正しい方法で教育すれば人間は変わる」という毛沢東(中国共産党中央委員会主席)の「思想改造」政策によって、戦争の捕虜は毎日、学習や運動をして過ごした[17]。 日本人戦犯の「思想改造」教育課程は、三段階となっており、 1956年には中国の瀋陽市の最高人民法院特別軍事法廷で起訴され、被告全員が罪を認め謝罪し、翌1957年に帰国してから日本で中国帰還者連絡会を創立し、加害証言活動と謝罪活動を行った[17]。 歴史家の秦郁彦は、日本人捕虜の「認罪」過程を洗脳として供述書の信憑性に注意すべきであるとした[19][17]。また、小林よしのりは、中国側の「思想改造教育」を自己啓発セミナーやカルト宗教の洗脳システムそのものと批判した[20][17]。
リフトンの研究
環境のコントロール
密かな操作
告白儀式
純粋性の要求
「聖なる科学」
教義の優先
特殊用語の詰め込み
存在権の配分
撫順戦犯管理所における日本人捕虜の「思想改造」「撫順戦犯管理所」を参照
反省学習(マルクス主義や毛沢東思想の学習)
罪行告白(坦白(たんぱい))
尋問