洗礼者ヨハネ
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彼はこの後、ヨハネによって創始された荒野での洗礼活動(荒野の誘惑)に入っている。なお、ヨハネが求めた「悔い改め」とは道徳的な改心ではなく、むしろ従来の当時のユダヤにおける人間の生活上の価値基準を180度転換すること、すなわち文字通りの「回心」であった。ヨハネは、ファリサイ派など当時のユダヤ教の主流派が、過去において律法を守って倫理的な生活を送ってきたことを誇り、それを基準として律法を守らない人びと、あるいは貧困などによって守りたくても守ることのできない人びとを、穢らわしいものとして差別し、蔑む心のありようをと考えた[2]

ルカによる福音書』3章5?6節では、ヨハネの登場にあたり、イザヤ書40章4?5節が引用され「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くなる。曲がった道はまっすぐに、でこぼの道は平らになり」と二重の並行句によって、イエスの先駆者としてその道を整えるヨハネの使命が示され、社会的不均衡の是正が示唆されている。これに続く「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という引用句は、ルカの普遍的救済思想を示している。[3]

なお、『ヨハネによる福音書』1章35節では、他の福音書でもイエスの最初の弟子としているシモン・ペトロアンデレは、元は洗礼者ヨハネの弟子であったとしている。
洗礼者聖ヨハネの斬首』(カラヴァッジオ画)『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』(カラヴァッジオ画)

ヨハネは当時の領主ヘロデ・アンティパスの結婚を非難したため捕らえられた。そして、ある少女が、祝宴での舞踏の褒美として彼の首を求めたため、処刑されたとする記述が各福音書に見られる。

さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。

このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。

ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、そこへ、このヘロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母にわたした。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体を引き取りにきて、墓に納めた。 ? 『マルコ』 6章14-29節(口語訳)

ヨハネの弟子たちは、その後も地中海世界において集団で宣教活動をおこなっていたことが『使徒行伝』19章1-5節から伺われる。
キリスト教における位置づけ

キリスト教において、伝統的にヨハネはイエスの先駆者として位置づけられている。このため正教会では前駆授洗者(ぜんくじゅせんしゃ、Forerunner)の称号をもって呼ぶ。キリストの先駆者として特別の尊崇を受け、カトリック・正教会・聖公会などで聖人とされている。伝統的に、誕生・斬首・首の発見、のそれぞれが祭日とされる。洗礼名としても好まれ、他のヨハネと区別するため、ジャン=バティスト(フランス語)ととくに呼ぶこともある。また「洗礼者」のみを名前として用いることもある(イタリア語、バッティスタなど)。
キリスト教における崇敬
キリスト教内のヨハネ理解ヨハネの旗

福音書筆者はイエスの言葉として、洗礼者ヨハネは預言者のうち最大のものであるが、天国の最も小さいものでも彼よりは大きいとしている。キリスト教におけるヨハネの位置は、旧約時代の最大の預言者であり、イエスの到来を告げる役割をもっていたとする。そのような解釈の根拠となったのはイザヤ書マラキ書にある「主の道を備える者」についての預言である(イザ40:3、マラ3:1)。


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