人事・経理・契約などの生産管理方式は清朝の官僚主義に基づく旧式の管理方法で、加えて生産された品は政府だけが使用するため採算は度外視されていた。こうした軍事工場から利潤はほとんど得られず、施設を維持・拡大し生産を継続するための資本を蓄積できなかった。 洋務派は官僚をイギリス・フランス・ドイツ・アメリカなどへと派遣して兵器や軍事装備を購入し、4つの近代海軍(北洋水師、南洋水師、広東水師、福建水師)を建設した。特に李鴻章が建設した北洋水師(北洋艦隊)は旅順および威海衛を要塞化し、鉄甲戦艦「定遠」および「鎮遠」をドイツから購入した。これらは極東においてトン数、火力とも最大の艦船であり、これに匹敵する戦艦を持たなかった日本では脅威と捉えられた。 だが、総理海軍事務衙門 洋務運動開始当初の軍事工業建設は、大量の銀を投じたものの官僚主義的な管理が災いして経済的成功は収めず、さらに軍事工業が必要とする原料もたちまち不足した。1870年代以降、洋務派は今度は「求富」をスローガンとし、軍事工業を支える民用工業を振興するため再び資金集めを始めた。市場の需要に応じるため、民用工業の産品は非常に多く、さらに近代資本主義工業の特徴を備えるようになった。 李鴻章が河北省開平(現在の唐山市)に作った開平炭鉱(1878年)、張之洞が湖北省武昌に作った湖北織布局と漢陽に作った漢陽鉄廠(1894年完成)、左宗棠が甘粛省蘭州に作った蘭州製造局(西安機器局が1872年に蘭州に移転したもの、別名・甘粛製造局)と蘭州機器織?局(別名・甘粛織?総局)などがこの時期の民需企業であり、これらの工場が産する繊維製品・機械などは中国経済全体からはわずかな規模にすぎなかったものの、外国資本の輸出品が中国市場を制圧することを一定程度押しとどめることに成功した。また李鴻章は外国人が独占していた蒸気船による内陸・沿岸の水運を中国人の手で運営するため、民間の資金を集めて上海に中国初の近代的海運企業・輪船招商局 洋務派は中国各地に30ヵ所あまりの近代新式学校を建設し、科学・軍事・翻訳などの人材を育成した。福州に開かれた海軍学校・船政学堂(1866年設立)は卒業生を北洋水師などへ送り出した。また著名な翻訳機関には京師同文館(1862年設立)がある。こうした教育機関・研究機関が「万国公法」(国際法の概説書)など西洋の書物を翻訳・出版し、「西学」の普及に努めた。これらの書物は幕末・明治初期の近代化を模索する日本にも大きな影響を与えた。さらに1872年から1875年までの4年間、毎年アメリカに30名の少年(平均年齢12歳)を留学させた。この事業は4年で終わり、当初15年間を予定していた留学期間も短縮され1881年に全員に帰国命令を出している。しかし彼らはアメリカで言葉の壁や体制の違いを乗り越えて優れた成績を収め大学にも進んでおり、多くが後に中国の政界・産業界などで活躍した。 洋務派は1879年に、天津と大沽の間に中国最初の電信路線を敷設し、電報事業を始めた。電報事業を興すことを李鴻章に提言した盛宣懐により、1881年には電報総局が開設され、上海から天津までの電信線も建設された。
海軍建設
民用工業
教育事業
通信事業
洋務運動に関わった人々
中央
恭親王奕?(軍機大臣・議政王大臣 )
文祥(ウェンシャン)(軍機大臣・総理各国事務衙門大臣)
沈桂芬(軍機大臣・総理各国事務衙門大臣)
地方
曽国藩(両江総督・直隷総督)
李鴻章(直隷総督・北洋通商大臣)
左宗棠(陝甘総督)
張之洞(両広総督・湖広総督)
劉坤一(両広総督・両江総督)
沈葆(両江総督・南洋通商大臣)
丁宝(山東巡撫
丁日昌(江蘇巡撫
呉賛誠(福建巡撫)
劉銘伝(台湾巡撫)
崇厚(チュンホウ)(?理三口通商大臣)
唐廷枢(輪船招商局総?)
鄭観応(上海機器職布局総?、上海電報局総?、輪船招商局総?)
馬建忠(輪船招商局会?・上海機器織布局総?)
盛宣懐(輪船招商局会?・津滬電報陸線総?)
在外官僚
陳蘭彬(留学生監督・駐米公使)
容?(留学生監督・駐米副使)