注連寺
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天井絵画は、村井石斎による伝統絵画「飛天の図」のほか、4人の現代作家のもの(木下晋「天空の扉」、満窪篤敬「水の精」、久保俊寛「聖俗百華面相図」、十時孝好「白馬交歓の図」)がある[4]

2009年(平成21年)2月25日以降、寺の門前(斜面下方)に位置する七五三掛地区が大規模な地すべりにより大きな被害を受けた。幸い、注連寺および境内の施設への影響は無く、参拝・見学は通常どおり受け付けている。地すべりの被害家屋は同年12月までに全て取り壊された。被災世帯は集落を離れる意向を示し、七五三掛には被害に遭わなかった1世帯のみが残っている。なお、七五三掛集落は映画『おくりびと(英題:Departures、2008年、監督:滝田洋二郎)』のロケ地でもある。ロケに使用された民家(2軒)は、地すべりの被害が軽微であったため、現地にそのまま保存されている。
即身仏‐鉄門海上人 

注連寺には鉄門海上人(恵眼院鉄門海上人)の
即身仏ミイラ)が厨子に納められており、公開されている。山形県内には庄内地方を中心に8体もの即身仏が安置されているが、そのうちの5体が注連寺系とされる

鉄門海上人は1768年明和5年)鶴岡市の出身で、25歳の時に注連寺第69世の寛能和尚の弟子となり「鉄門海(「海」は空海の海)」の名を戴き一世行人となった。上人の足跡は北は北海道から南は四国にまで及び湯殿山信仰の布教に大きな業績を残した。3000日にもおよぶ苦行[5]を経て弘法大師空海と同一年齢の数え62歳で即身仏になったと伝えられる。この年齢以外の即身仏は伝染病の流行や飢饉などが発生した折、民衆の苦しみの救済を祈願し彼らの苦しみに成り代わって自ら即身仏になったといわれる[6]


御縁年および文人:森敦との縁

月山文学碑(手前)と旧森敦文庫(右奥)出羽三山の奥の院である湯殿山と注連寺が開かれたのが丑歳であったことにちなみ、丑歳と迎え干支の未歳は「御縁年」として本尊の大日如来像が開帳される。


森敦の揮毫による月山文学碑の碑文月山文学碑と森敦文庫 - 作家森敦(1912?1989)が昭和49年に芥川賞(第70回)を受賞した小説『月山』は、森自身が1951年(昭和26年)に注連寺でほぼ一年に亘って過ごした経験に基づいて描かれている。注連寺の境内にある月山文学碑(1981年(昭和56年)建立)と森敦文庫(1986年(昭和61年)開設)はその功績を後世に伝えるためのもの。注連寺は『月山』はじめ『われ逝くもののごとく(1987年刊、第40回 野間文芸賞受賞)』など森の著書に数多く登場する。なお、森敦文庫は建物の老朽化により取り壊され、文庫内に展示されていた収蔵品の一部は平成24年10月、鶴岡市馬場町にある鶴岡公園(鶴ヶ岡城址公園)内の『大宝館(郷土人物資料館)』に移設された。

所在地と交通

所在地‐山形県鶴岡市大網字中台92-1

交通

車の場合‐庄内空港から45分.JR鶴岡駅から30分.山形自動車道庄内あさひICから15分、月山ICから40分.

バスの場合‐JR鶴岡駅から「湯殿山行」に乗車、大網で降車し徒歩20分.


寺名について

寺名の「注連」とは、注連縄(しめなわ)のことである。寺伝によると、境内の桜の木:御神木の七五三掛桜に注連縄をかけていたという。注連縄は神道における祭具であり、「神域と現世の境界にある結界」を表す。前述の通り、注連寺は出羽三山の参道口にあり、寺の先には「女人結界」が存在した。女性は、注連寺までしか入れなかったのである。

注連縄の締め方は、中途に7本・5本・3本の縄を通してぶら下げる七五三掛で行われる。このことから、注連縄は別名「七五三縄」とも呼ばれる。出羽三山に注連寺より入る参道が「七五三掛口」と呼ばれたのは、これに由来する。

仏教寺院の寺名に、神道の祭具である注連の名があるのは、注連寺が、かつて神仏習合であった出羽三山別当寺であったことを示している。
脚注^ 他に本道寺、大日寺、大日坊。ただし現存は注連寺と大日坊のみ。
^ 保角里志『南出羽の戦国を読む』 2012
^ 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』、1994
^湯殿山の結界にある寺院「湯殿山 注連寺」中田英寿公式サイト
^ 五穀断ち・十穀断ち・山草や木の実だけを食べる木食(もくじき)など。
^ NHK 歴史秘話ヒストリア 「オレは即身仏になる!?“ミイラ仏”の不思議な世界?」 2015年6月3日放送

関連項目

本多猪四郎 - 映画監督。幼少期を大網で過ごし、一時注連寺にも起居していた。

外部リンク

湯殿山注連寺(オフィシャルサイト)

森敦資料館

中村安宏, 鹿野朱里「鉄門海の思想:『亀鏡志』の分析を中心に」『アルテスリベラレス』第110巻、岩手大学人文社会科学部、2022年6月、13-31頁、doi:10.15113/00015688、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISSN 0385-4183、CRID 1390855656045517952。 

「岩手県岩手郡岩手町の豊城稲荷神社の鉄門海碑に関する調査報告書」


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