法隆寺
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建造物以外にも、飛鳥奈良時代仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。
歴史金堂と五重塔西院回廊と大講堂銅造薬師如来像(金堂)銅造釈迦三尊像(金堂)木造四天王像のうち増長天(金堂)聖霊院夢殿(参考画像)東武ワールドスクウェアにある法隆寺西院伽藍の模型。回廊の南面に中門を配し、回廊内には東に金堂、西に五重塔を配す。これらの背後に見える入母屋屋根・単層の建物は大講堂、その手前左右にある切妻屋根・楼造の小建物は鐘楼(東)と経蔵(西)。木造観音菩薩像(救世観世音菩薩、夢殿安置)卍字崩し高欄と人字形割束(中門)雲肘木(中門)
創建(飛鳥、白凰、奈良時代)

574年 (敏達3年)聖徳大子生まれる。

586年 (用明元年)法隆寺および薬師仏の造立を発願。

607年 (推古15年)法隆寺が完成。用明天皇のために金堂薬師如来像を造願。

622年 (推古30年)2月22日、聖徳太子薨去[注釈 1]橘大郎女、聖徳太子のために、天寿国曼荼羅繍帳を作成。

623年 (推古31年)止利仏師により金堂釈迦三尊像が完成。

643年 (皇極2年)11月、蘇我入鹿が、聖徳太子の皇子山背大兄王らを斑鳩宮に襲う。山背大兄王ら一族25人が自害し、聖徳太子の血族である上宮王家が滅亡。

670年 (天智9年)4月30日夜半、法隆寺炎上。一屋無余。

708年 (和銅元年)詔により法隆寺を再建。

711年 (和銅4年)五重塔内塑像および中門金剛力士像を造る。

737年 (天平9年) 行信、聖徳太子の遺品を集める。

739年 (天平11年) 4月10日、行信、上宮王院(東院)夢殿を造立。

767年 (神護景雲元年)9月5日、行信発願の大般若経など2700巻の写経事業が、法資孝仁によって完成。

法隆寺がある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和国(現・奈良県)と河内国(現・大阪府南部)とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳を始めとする多くの古墳古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる[3]

日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭わず、推古朝に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。しかし、『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が明治20年(1887年)頃から出されるようになった(菅政友黒川真頼小杉榲邨ら)。これに対し、『書紀』の記載は信用できず、西院伽藍は推古朝以来焼けていないと主張する学者たちもおり(平子鐸嶺関野貞ら)、両者の論争(法隆寺再建・非再建論争)はその後数十年間続いた(論争の詳細については後述[4][5]


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