法政大学
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当初はフランス学を教授することを目的としていたが、法律科の設置以降は法律学校としての性格を強め、1888年(明治21年)に文部省令第3号「特別認可学校規則」[19] により特別認可学校となった[25]

仏学会および東京仏学校の主な関係者

仏学会名誉総裁であった伏見宮貞愛親王皇族。第4代内大臣大勲位菊花章頸飾理化学研究所創設時に総裁に就任。

会則改正により仏学会総裁に就任した閑院宮載仁親王。皇族であると同時に元帥陸軍大将。仏学会が日仏協会へ移行後も、初代総裁に就任。

仏学会名誉会員であった徳川昭武江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の弟。水戸藩第11代藩主。将軍の名代としてパリ万博に出席。

仏学会名誉会員であり、東京仏学校の商議委員を務めた蜂須賀茂韶徳島藩第14代(最後)の藩主であり、公爵貴族院議長文部大臣を歴任。

東京仏学校設立のため辻新次や古市公威らと仏学会を組織し、創立会員となった寺内正毅。後の第18代内閣総理大臣、元帥陸軍大将。

東京法学校と東京仏学校の合併

フランス法系の結集を図るため、1889年(明治22年)5月の仏学会臨時総集会において、東京法学校と東京仏学校の合併ならびに和仏法律学校への改称が決議され、9月9日に同校が正式に発足した[26]

初代校長には、当時の司法次官(司法官僚トップ)で日本における「法律の元祖」[27] といわれる箕作麟祥が就任。以後、日本の現行諸法典を創った法典調査会の中心人物が校長に就任している。その中でも、「日本民法典の父」[28] といわれる梅謙次郎は、20年間にわたり学監、校長、初代総理として、本学の発展に大きく貢献した。

梅が校長を務めていた1903年(明治36年)に法政大学と改称(専門学校令準拠)。その後、1920年(大正9年)に日本の私立大学では慶應義塾大学早稲田大学についで、最も古い段階で大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。そして、1949年(昭和24年)より新制大学となって今に至っている。

和仏法律学校の主な関係者

司法次官時代に和仏法律学校初代校長に就任した箕作麟祥。日本で初めて「権利」「義務」「憲法」といった訳語を用いて近代法典を翻訳し、日本における「法律の元祖」と評された。後に校長と行政裁判所長官を兼任。

学祖・梅謙次郎。和仏法律学校校長、のち法政大学初代総理。民法商法起草者。東京帝国大学法科大学長、文部省総務長官。「法政大学」と名付けた人物であり、20年間にわたり無報酬で本学の発展に尽力した。

富井政章。和仏法律学校校長。帝国大学法科大学長。薩?の義理の兄で、東京法学校時代から本学の発展に貢献した。梅とともに現行民法典を起草した三人のうちの一人。貴族院勅選議員枢密顧問官

司法次官時代に和仏法律学校校長に就任した横田国臣法典調査会第三部長(刑法起草責任者)、検事総長大審院院長(最高裁判所長官)。

和仏法律学校の第2代教頭に就任したミシェル・ルヴォン (Michel Revon)。司法省名誉法律顧問。東京帝国大学法科大学教授。ボアソナードの後任者として梅謙次郎を支えた。帰国後、ソルボンヌ大学教授に就任[29]
詳細は「法政大学の人物一覧」を参照[先頭へ戻る]
年表
明治「法政大学発祥の地」記念碑。前身の東京法学社は、1880年4月に当時の神田駿河台北甲賀町19番地池田坂上に設立された。明治中期の小川町・錦町方面(ニコライ堂から撮影)

1880年(明治13年)

4月 - 東京府神田区駿河台北甲賀町で東京法学社講法局・代言局開設。現在の法政大学はこれをもって大学の創立としている。

9月 - 講法局が本格的に開校。

12月 - 神田区神田錦町に移転。


1881年(明治14年)5月 - 講法局が独立し東京法学校と改称(主幹薩?正邦)。

1883年(明治16年)9月 - 初代教頭にボアソナード旧民法旧刑法治罪法刑事訴訟法)起草者、日本政府顧問)が就任。修業年限を3年とする。

1884年(明治17年)3月 - 神田区小川町に移転。

1885年(明治18年)

6月 - 最初の卒業生8人を出す[30]

9月 - 東京法学校の通信教育機関(中央法学会)設立。


1886年(明治19年)

4月 -辻新次(初代文部次官)、古市公威(帝国大学工科大学初代学長)、長田_太郎(外交官、明治天皇の通訳)、寺内正毅(後の第18代内閣総理大臣、元帥陸軍大将)ら7名[注釈 4] が、フランス学の普及のために仏学校設立を計画。さらに5月には仏学会日仏協会の前身)を組織した。[注釈 5]

11月 - 同学会が神田区小川町の東京法学校の正面に東京仏学校を設立[31]。初代校長は古市公威。

12月 - 私立法律学校特別監督条規公布により、東京法学校など五大法律学校が帝国大学特別監督下に入る。


1887年(明治20年)10月 - 校友会を設立[32]

1888年(明治21年)

3月 - 五大法律学校連合大討論会に参加。同討論会は1890年7月まで13回開催された[33]

5月 - 東京法学校、普通科と法律科を設置、補習科を廃止。

6月 - 認可生・員外生・傍聴生の制度を新設。


1889年(明治22年)

5月 - 東京法学校と東京仏学校とが合併、和仏法律学校と改称。初代校長に箕作麟祥元老院議官司法次官、貴族院勅選議員、行政裁判所長官、法典調査会主査委員、男爵)就任。


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