法政大学
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12月 - 初の女子留学生をフランスに派遣[48]


1940年(昭和15年)4月 - 法文学部英吉利文学科・独逸文学科・仏蘭西文学科・国文学科・哲学科・心理学科・社会学科を文芸学科・文政学科に改組。

1941年(昭和16年)

1月 - 学友会を報国会と改称。

9月 - 予科図書館落成。

国本社専務理事竹内賀久治。1943年に第5代総長となり、法政大学の軍国路線を強力に推し進めたが、敗戦後の大学民主化要求により退陣を余儀なくされた。

1943年(昭和18年)

3月 - 総長に竹内賀久治国本社専務理事第二東京弁護士会創立者・会長、卒業生初の総長)就任。

10月 - 法政大学学徒出陣壮行会を挙行[56]

出陣学徒壮行会(法政大学からは約870人が出陣した。)[56]

1944年(昭和19年)

2月 - 『法学志林』休刊(1949年復刊)。

4月 - 法政大学航空工業専門学校設立(木月校舎)。

7月 - 教科研事件で検挙された城戸幡太郎教授を即時解職[57]


1945年(昭和20年)

3月 - 高等商業部廃止。

4月 - 荒城卓爾(陸軍少将、旧国本社員)が学生総監に就任。

5月 - 空襲により市ケ谷・木月の両キャンパス被災、施設の半数以上を失う。

6月 - 井上達三(陸軍中将、竹内総長の陸士時代の同期生)が予科長を兼務。

戸坂潤三木清(いずれも元法大教授)が獄中で死亡[58]

9月 - 大陸部廃止。

10月 - 法政大学航空工業専門学校が、法政工業専門学校と改称。

11月 - 戦後最初の学生大会を開催し、大学民主化と軍国主義教授追放を要求して全学同盟休校[59]

12月 - 一般市民を対象に市ケ谷図書館の日曜公開を実施(1952年まで)[60]


昭和戦後夏目漱石門下の英文学者野上豊一郎。漱石ゆかりの教員の招聘に貢献し、文学部の基礎を築いた。法政騒動で一時失脚したがのちに復帰し、戦後第6-7代総長となった。

1946年(昭和21年)

2月 - 竹内総長辞任。野上豊一郎夏目漱石門下、英文学者、能楽研究者)が総長に就任。

4月 - 法文学部文芸学科・文政学科を国文学科・英文学科・哲学科に改組。

9月 - 学生自治会を結成。


1947年(昭和22年)

3月 - 法文学部が法学部・文学部に改編。

4月 - 法政工業専門学校が千葉郡二宮町薬園台陸軍騎兵学校跡地に移転。

6月 - 体育会結成[61]

7月 - 日本で最初の通信教育部を設置、初代部長に美濃部達吉就任。

9月 - 文化連盟結成[61]


1948年(昭和23年)

4月 - 筑波工業専門学校を併合して予科筑波分校(石岡分校)開設[62]

10月 - 市谷田町校地(侯爵山内豊景所有地[54]、現在の市ケ谷田町校舎敷地)923.98坪を購入[63]

12月 - 法友会出版局設立。

学園祭「自主法政祭」の第1回目を開催(1947年説も)。

大原社会問題研究所の初代所長(在任当時は大原財閥が運営)であった、統計学者の高野岩三郎。大学との関係では、和仏法律学校時代の1897年から講師を務め[64]、その後は顧問や終身維持員を歴任した。

1949年(昭和24年)

4月 - 学制改革により新制大学となる。法学部・文学部・経済学部を設置[65]。法学部に労働学科を開設(1951年廃止)。旧制予科を新制教養部に改組再編。

7月 - 大原社会問題研究所(前身は倉敷紡績の創業家、大原財閥の財団法人)を合併。

9月 - 図書館川崎分館発足。

10月 - 創立70周年記念式典でCIE顧問イールズが赤色教授追放を訴える(イールズ声明[66]

昭和25年度の学生募集広告第8代総長大内兵衛。終戦後の復興期に校地拡張や新校舎建設の他、新たに3学部の創設、教養部の市ケ谷回帰、そして各種文化事業等を遂行。また吉田茂政権では政府統計委員会委員長として、戦後日本の統計学の再建に尽力した。

1950年(昭和25年)

4月 - 工学部設置(市ケ谷の六角校舎等を使用)[67]法政大学短期大学部設置。

6月 - 総長に大内兵衛(経済学者、専攻は財政学、東京帝国大学教授、日本銀行顧問、社会保障制度審議会初代会長、政府統計委員会委員長)が就任。

9月 - レッド・パージ反対闘争起こる[68][69]

10月 - 「学生諸君に告ぐ」(いわゆる大内声明)を発表[注釈 16]

12月 - 三教授解職問題起こる(?翌年12月)[70][71]


1951年(昭和26年)

1月 - 大原社研が財団法人として再度独立する。

3月 - 私立学校法により学校法人法政大学となる。旧制専門部・高等師範部・工業専門学校廃止。石岡教養部を木月教養部に移管して廃止[72]

4月 - 新制大学院を設置。

8月 - 港区麻布新堀町中央労働学園大学(母体は内務省と財界により設立された財団法人協調会)を吸収合併。

10月 - 文学部に教職課程を開設。


1952年(昭和27年)

4月 - 麻布校舎に社会学部を設置[注釈 17]。工学部が麻布校舎に移転。野上記念法政大学能楽研究所設立。

5月 - 血のメーデー事件で法政大学の学生が死亡[73]


1953年(昭和28年)

2月 - 53年館(大学院校舎)竣工。

3月 - 財団法人日本統計研究所(前身は日本銀行国家資力研究所)が本学へ移管される。
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