法政大学
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法学部・文学部・経済学部を設置[65]。法学部に労働学科を開設(1951年廃止)。旧制予科を新制教養部に改組再編。
7月 - 大原社会問題研究所(前身は倉敷紡績の創業家、大原財閥の財団法人)を合併。
9月 - 図書館川崎分館発足。
10月 - 創立70周年記念式典でCIE顧問イールズが赤色教授追放を訴える(イールズ声明)[66]。
昭和25年度の学生募集広告第8代総長大内兵衛。終戦後の復興期に校地拡張や新校舎建設の他、新たに3学部の創設、教養部の市ケ谷回帰、そして各種文化事業等を遂行。また吉田茂政権では政府統計委員会委員長として、戦後日本の統計学の再建に尽力した。
1950年(昭和25年)
4月 - 工学部設置(市ケ谷の六角校舎等を使用)[67]。法政大学短期大学部設置。
6月 - 総長に大内兵衛(経済学者、専攻は財政学、東京帝国大学教授、日本銀行顧問、社会保障制度審議会初代会長、政府統計委員会委員長)が就任。
9月 - レッド・パージ反対闘争起こる[68][69]。
10月 - 「学生諸君に告ぐ」(いわゆる大内声明)を発表[注釈 16]。
12月 - 三教授解職問題起こる(?翌年12月)[70][71]。
1951年(昭和26年)
1月 - 大原社研が財団法人として再度独立する。
3月 - 私立学校法により学校法人法政大学となる。旧制専門部・高等師範部・工業専門学校廃止。石岡教養部を木月教養部に移管して廃止[72]。
4月 - 新制大学院を設置。
8月 - 港区麻布新堀町の中央労働学園大学(母体は内務省と財界により設立された財団法人協調会)を吸収合併。
10月 - 文学部に教職課程を開設。
1952年(昭和27年)
4月 - 麻布校舎に社会学部を設置[注釈 17]。工学部が麻布校舎に移転。野上記念法政大学能楽研究所設立。
5月 - 血のメーデー事件で法政大学の学生が死亡[73]。
1953年(昭和28年)
2月 - 53年館(大学院校舎)竣工。
3月 - 財団法人日本統計研究所(前身は日本銀行国家資力研究所)が本学へ移管される。
4月 - 木月教養部から法・文学部2年生が市ケ谷に移転[74]。
10月 - 53年館内に図書館大学院分室を設置[75]。
1954年(昭和29年)4月 - 木月教養部から経済学部2年生が市ケ谷に移転(木月は1年生のみとなる)[76]。
1955年(昭和30年)
2月 - 55年館竣工。
4月 - 社会学部が麻布校舎から市ケ谷に移転。55年館地下食堂(富士見食堂)が開店。
5月 - 能楽研究所が文学部付置研究所となる。
1956年(昭和31年)
2月 - 法政大学消費生活協同組合設立認可。
9月 - 海外留学派遣制度発足(翌年度から実施)。
1957年(昭和32年)3月 - 58年館敷地(靖国神社所有地)1070.36坪を購入[77]。
1958年(昭和33年)
5月 - 58年館竣工。
6月 - 58年館地下食堂の経営権をめぐって「六月闘争」が起こる[注釈 18]。
9月 - 木月教養部の市ケ谷移転完了[78]。58年館地下食堂(生協食堂)が開店。
55年館と58年館が第10回日本建築学会賞作品賞を受賞。
第9代総長有沢広巳。吉田茂の経済ブレーンとして傾斜生産方式を立案したことでも知られる。退官後は法大総長のほか原子力委員会委員、日本学士院長なども務めた。1959年(昭和34年)
4月 - 経営学部経営学科を設置。有沢広巳が総長に就任。
12月 - 工学部移転用地を購入(現在の小金井キャンパス)。
法政大学の教職員・学生も安保闘争に加わり多くの負傷者を出した[79]。1960年(昭和35年)
1月 - 田町校舎(予備校東京学院)購入。
6月 - 安保反対法政大学全学抗議集会を開催[注釈 19][注釈 20]。旧制法政大学廃止。
8月 - 校友会館として日本私立大学連盟会館(旧泉鏡花邸跡)を購入[80]。
55年館と58年館が第1回BCS賞を受賞。
1961年(昭和36年)4月 - 文学部第一部史学科・地理学科開設、文学部第二部史学科・地理学科学生募集停止。
1962年(昭和37年)
4月 - 奨学金給付制度開始。62年館竣工。市ケ谷の木造校舎を解体。
7月 - 二部会計課職員による不正事件発覚、有沢総長辞任(9月)[81][82]。
1963年(昭和38年)
1月 - 法友会出版局を法政大学出版局と改称。
2月 - 総長に谷川徹三(西田幾多郎門下、哲学者、帝室博物館次長、文化功労者、長男は詩人の谷川俊太郎)が就任。
1964年(昭和39年)
1月 - 55年館地下の富士見食堂が廃業し、生協食堂となる[83]。
3月 - 小金井キャンパス竣工、工学部が麻布校舎から移転。
4月 - 法政大学計算センター(現・情報メディア教育研究センター)開設。
12月 - 町田校地(現在の多摩キャンパス)購入開始( - 1967年)。
1965年(昭和40年)
4月 - 大学院工学研究科を設置。
5月 - 経理部会計課で第二の不正事件発覚、谷川総長辞任(8月)[84][85]。
7月 - 白馬山荘および中禅寺湖畔荘竣工。
1966年(昭和41年)
4月 - 工学部建設工学科を土木工学科と建築学科に分離。学生相談室設置。
この頃から大学紛争が激化[86]。
1967年(昭和42年)
2月 - 大原社研麻布分室を設置。
3月 - 総長公選制が実現し、渡辺佐平が総長に就任。
美濃部達吉門下の政治学者中村哲。1968年に第12代総長となり、大学紛争、町田(多摩)移転問題、新学部設置問題などの難題解決に取り組んだ。
1968年(昭和43年)
4月 - 工学部電気工学科に電気電子専攻、計測制御専攻を増設。
5月 - 中村哲が総長に就任。
1969年(昭和44年)
3月 - 出版局が麻布校舎に移転開始(翌年移転完了)。
4月 - 法大全共闘結成。以後6月23日から11月19日まで本校地区は休講となる[87]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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