法政大学
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最初の校歌「名大いなれ法政」(為光直経作詞・瀬戸口藤吉作曲)制定[43]


1925年(大正14年)

4月 - 専門部に政治経済科と高等師範科(国漢・英語)を開設。

9月 - 東京六大学野球連盟発足。


1926年(大正15年)10月 - 学位規程認定。

昭和戦前

1927年(昭和2年)2月 - 第三校舎竣工(最初の鉄筋コンクリート校舎、戦後第一校舎と改称)、新図書館開館。

1928年(昭和3年)

1月 - 高等師範科卒業生に中等教員無試験検定認可。

4月 - 第四校舎(通称・六角校舎)竣工。

5月 - 創立50周年記念式典を挙行。来賓に田中義一(第26代内閣総理大臣)、水野錬太郎(第36代文部大臣)、原嘉道(第31代司法大臣)、中橋徳五郎(第5代商工大臣)、後藤新平(当時は第7代東京市長、子爵)、駐日フランス大使等。


1929年(昭和4年)

1月 - 専門部に高等商業科を設置。

5月 - 野球部がハワイに遠征して8勝7敗[44]

1929年(昭和4年)5月にアメリカハワイに遠征した野球部



7月 - 日本の大学で初となる航空研究会を結成[45]内田百が初代会長に就任)。

小説家で随筆家の内田百夏目漱石の門下生の一人で知られ、大学ではドイツ語の教授を務めた。また法政大学航空研究会会長に就任し、日本初の学生訪欧飛行を成功に導いた。なお黒澤明監督による1993年公開の日本映画「まあだだよ」は、百閧フ随筆が原案となっている。

1930年(昭和5年)

1月 - 背広着用禁止、学生帽を角帽に統一[注釈 12]

2月 - 校友会館(後に新館と改称)竣工。

新校歌(佐藤春夫作詞・近衛秀麿作曲)が神宮球場で初めて歌われる(翌年1月に正式な校歌となる)[46]

10月 - 東京六大学野球リーグで初優勝。


1931年(昭和6年)

2月 - 松室致学長死去[注釈 13]秋山雅之介が学長事務取扱となる(1933年学長に就任)。

3月 - 富井政章、若槻禮次郎(第25・28代内閣総理大臣)、古市公威が顧問に就任[47]。法文学部政治学科を政経学科と改称。

第25・28代内閣総理大臣若槻禮次郎。学祖・梅謙次郎の書生に始まり、講師維持員理事、そして顧問を歴任。大学昇格の陰の功労者であり、一時は総長候補に推戴されるなど、長きにわたり本学の発展に尽力した。



4月 - 学部主任制度を学部長制度に改める。

1931年(昭和6年)に日本初の学生訪欧飛行に成功した青年日本号。目的地ローマのリットリオ飛行場では盛大な歓迎を受けた。写真中央は本学学生の栗村、教官の熊川両氏。左から三人目は、後に首相となる駐イタリア日本大使の吉田茂。この後、両氏はローマ教皇に謁見、イタリア首相と会見した。



5月 - 航空研究会の「青年日本号」が訪欧飛行に出発(日本の学生初、10月帰国)。


1932年(昭和7年)

6月 - 専門部の学則を変更し、高等師範部および高等商業部を設置。

女子聴講生を受け入れる[48]

法政騒動を報じる『東京朝日新聞』(1934年1月7日付朝刊15面)陸軍大将荒木貞夫真崎甚三郎と並ぶ皇道派の巨頭として知られる。1933年に法政大学顧問となり、1937年からは修身科講座の講師として木月予科の教壇にも立った。

1933年(昭和8年)

9月 - 法政騒動発生。

10月 - 荒木貞夫(第37・38代陸軍大臣、第53代文部大臣、陸軍大将)が顧問に就任[49]

12月 - 法政騒動により、野上豊一郎理事・学監・予科長を解任、休職[50](1941年復帰)[51]


1934年(昭和9年)

1月 - 野上派と目された予科教授・講師47名を解職[50](その後37名補充)[52][注釈 14]

4月 - 文学科と哲学科に女子学生が入学[53]

5月 - 秋山学長辞任。学長制を総長制に改め、水町袈裟六(大蔵次官、日本銀行副総裁、会計検査院長、枢密顧問官)が総長に就任。

7月 - 水町総長死去。小山松吉(第35代司法大臣、検事総長、貴族院勅選議員)が総長に就任。


1935年(昭和10年) - 12月、高等文官試験対策に特化した高等研究科を設置。

1936年(昭和11年)

3月 - 大蔵省より官有地(現在の外濠校舎付近の土地[54])1,108.99坪を払い受ける[55]

4月 - 大学予科川崎市木月(現在の法政大学第二中学校・高等学校所在地)に移転し、富士見の大学敷地(現在の市ケ谷キャンパス)内に法政中学校(現:法政大学中学校・高等学校)を設立[55]


1937年(昭和12年)4月 - 高等師範部に歴史地理科を新設。

1938年(昭和13年)2月 - 人民戦線事件で法大関係者からも検挙者が出る(ただし全員無罪[注釈 15])。

1939年(昭和14年)

3月 - 野球部が中野から木月に移転。

4月 - 大陸部専門部)を新設。部長に大川周明(思想家)が就任。法文学部文学科・哲学科を英吉利文学科・独逸文学科・仏蘭西文学科・国文学科・哲学科・心理学科・社会学科に改組。

12月 - 初の女子留学生をフランスに派遣[48]


1940年(昭和15年)4月 - 法文学部英吉利文学科・独逸文学科・仏蘭西文学科・国文学科・哲学科・心理学科・社会学科を文芸学科・文政学科に改組。

1941年(昭和16年)

1月 - 学友会を報国会と改称。

9月 - 予科図書館落成。

国本社専務理事竹内賀久治。1943年に第5代総長となり、法政大学の軍国路線を強力に推し進めたが、敗戦後の大学民主化要求により退陣を余儀なくされた。

1943年(昭和18年)

3月 - 総長に竹内賀久治国本社専務理事第二東京弁護士会創立者・会長、卒業生初の総長)就任。
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