法政大学
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1917年(大正6年)4月 - 東京六大学野球連盟の前身である三大学(早慶明)リーグに野球部が加盟、四大学リーグ()結成、神田橋グラウンドを借用[注釈 9]

1918年(大正7年)

8月 - 予科の修業年限を3年に延長する。

10月 - 麹町区富士見町4丁目の土地を購入(現在の市ケ谷キャンパス敷地)。当初は現在よりも敷地は狭く、徐々に敷地を買収・拡張していくことになる[36]


1919年(大正8年)

10月 - 大学令による法政大学設立認可申請を行う。

中野球場完成[注釈 8]

扶信会(東大新人会の影響を受けた学生団体)結成[37][注釈 10]

法大昇格計画(『東京朝日新聞』 1919年9月12日付朝刊4面)官報』(1920年4月16日付)文部省告示第266号「大学令ニ依リ法政大学ヲ設立スルノ件大正九年四月十五日認可セリ」。同日には、明治中央日本國學院同志社の各大学も認可された。

1920年(大正9年)4月 - 法政大学設立認可(学長・松室致)。法学部(法律学科・政治学科)・経済学部(経済学科・商業学科)、専門部(法科・政治科・商科)設置。

1921年(大正10年)

4月 - 富士見町4丁目の第一校舎竣工。ヴィルヘルム・ゾルフ駐日ドイツ大使が竣工記念に来校[38]

専門部が一部・二部制となる。


1922年(大正11年)

2月 - 第二校舎竣工。フランス特派使節で来日したジョッフル元帥が来校し、大講堂で学生に演説。[39]

4月 - 法学部に文学科・哲学科を新設して法文学部となる。

9月 - 応援団結成[40]


1923年(大正12年)

7月 - 社会問題研究会結成。

8月 - 旧九段上校舎を大東文化学院に売却[41]

1926年(大正15年)頃の法政大学。旧江戸城外堀の水面に旧第一校舎が映っている。

1924年(大正13年)

4月 - 校名改称問題起こる[注釈 11]

5月 - 専門部が高等学校大学予科と同等以上と指定される[42]。東京高等予備校廃止。

12月 - 文学科に国文学主攻、哲学科に社会学主攻を開設。

最初の校歌「名大いなれ法政」(為光直経作詞・瀬戸口藤吉作曲)制定[43]


1925年(大正14年)

4月 - 専門部に政治経済科と高等師範科(国漢・英語)を開設。

9月 - 東京六大学野球連盟発足。


1926年(大正15年)10月 - 学位規程認定。

昭和戦前

1927年(昭和2年)2月 - 第三校舎竣工(最初の鉄筋コンクリート校舎、戦後第一校舎と改称)、新図書館開館。

1928年(昭和3年)

1月 - 高等師範科卒業生に中等教員無試験検定認可。

4月 - 第四校舎(通称・六角校舎)竣工。

5月 - 創立50周年記念式典を挙行。来賓に田中義一(第26代内閣総理大臣)、水野錬太郎(第36代文部大臣)、原嘉道(第31代司法大臣)、中橋徳五郎(第5代商工大臣)、後藤新平(当時は第7代東京市長、子爵)、駐日フランス大使等。


1929年(昭和4年)

1月 - 専門部に高等商業科を設置。

5月 - 野球部がハワイに遠征して8勝7敗[44]

1929年(昭和4年)5月にアメリカハワイに遠征した野球部



7月 - 日本の大学で初となる航空研究会を結成[45]内田百が初代会長に就任)。

小説家で随筆家の内田百夏目漱石の門下生の一人で知られ、大学ではドイツ語の教授を務めた。また法政大学航空研究会会長に就任し、日本初の学生訪欧飛行を成功に導いた。なお黒澤明監督による1993年公開の日本映画「まあだだよ」は、百閧フ随筆が原案となっている。

1930年(昭和5年)

1月 - 背広着用禁止、学生帽を角帽に統一[注釈 12]

2月 - 校友会館(後に新館と改称)竣工。

新校歌(佐藤春夫作詞・近衛秀麿作曲)が神宮球場で初めて歌われる(翌年1月に正式な校歌となる)[46]

10月 - 東京六大学野球リーグで初優勝。


1931年(昭和6年)

2月 - 松室致学長死去[注釈 13]秋山雅之介が学長事務取扱となる(1933年学長に就任)。

3月 - 富井政章、若槻禮次郎(第25・28代内閣総理大臣)、古市公威が顧問に就任[47]。法文学部政治学科を政経学科と改称。

第25・28代内閣総理大臣若槻禮次郎。学祖・梅謙次郎の書生に始まり、講師維持員理事、そして顧問を歴任。大学昇格の陰の功労者であり、一時は総長候補に推戴されるなど、長きにわたり本学の発展に尽力した。



4月 - 学部主任制度を学部長制度に改める。

1931年(昭和6年)に日本初の学生訪欧飛行に成功した青年日本号。目的地ローマのリットリオ飛行場では盛大な歓迎を受けた。写真中央は本学学生の栗村、教官の熊川両氏。左から三人目は、後に首相となる駐イタリア日本大使の吉田茂。この後、両氏はローマ教皇に謁見、イタリア首相と会見した。



5月 - 航空研究会の「青年日本号」が訪欧飛行に出発(日本の学生初、10月帰国)。


1932年(昭和7年)

6月 - 専門部の学則を変更し、高等師範部および高等商業部を設置。

女子聴講生を受け入れる[48]

法政騒動を報じる『東京朝日新聞』(1934年1月7日付朝刊15面)陸軍大将荒木貞夫
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