創立者のほかに、初代教頭のギュスターヴ・エミール・ボアソナード (Gustave Emile Boissonade) と初代総理(総長)の梅謙次郎を学祖とする。 建学以来「自由な学風と進取の気象」を校風としている。「自由と進歩」は1880年の「東京法学社開校ノ趣旨」に述べられており、「進取の気象」は法政大学校歌に謳われている。 また、戦後これらの伝統にヒューマニズムの精神を加味した3つの指針「独立自由な人格の形成」、「学問を通じたヒューマニティの昂揚」、「日本人の社会生活の向上に寄与する人材の育成」を定めている。 その後、「開かれた大学、開かれた精神」や「自立型人材の育成」を基本理念としながら、大学運営を行ってきた。そして、2016年に大学憲章を定めたうえで、次のようなミッションを掲げている[5]。 「 1. 本学の使命は、建学以来培われてきた「自由と進歩」の精神と公正な判断力をもって、主体的、自立的かつ創造的に、新しい時代を構築する市民を育てることである。 前身の東京法学社は、私立法律学校特別監督条規に基づいて帝国大学総長の監督下にあった、日本最古の私立法律学校として知られる。五大法律学校の中でも最も早く設立されたものであり、これが現在の法学部のルーツである[2]。 また、経済学部が東京帝国大学や京都帝国大学そして慶應義塾大学に次いで4番目に設立され(1920年)[注釈 1]、経営学部も神戸大学や明治大学に次いで3番目に設立されており、多くの伝統学部が存在する。 さらに1947年に日本最初の大学通信教育課程を開設[6] した他、1952年には中央労働学園大学の社会学部(日本の大学で初めて設立された社会学部)を吸収合併[7]。1995年にも日本最初の夜間博士後期課程を開設している[8]。 企業側へ学生を派遣し、短期就職させるインターンシップも他大学に先立ち早くから始動させている。また、生涯設計や就職活動などに対する意識をいち早く形成させる目的の「キャリアデザイン学」を開講しており、学部の枠を超えて1年次から教養科目として履修できる。 2011年に公務員および法曹を目指す学生を支援するための「公務人材育成センター」を設置して公務員講座・法職講座を開講[9]、2014年には「高度会計人育成センター」を設置して会計専門職講座を開講している[10]。 国際社会で活躍できる人材を育成するための「グローバル教育センター」を2014年に開設しており、各学部のカリキュラムに連動した海外留学制度や国際ボランティア・国際インターンシップなどの様々な国際教育プログラムを整備している。 学内においては、交換留学生と所定の条件を満たした日本人学生を対象に英語でゼミを行う「交換留学生受入れプログラム (ESOP)」を市ヶ谷キャンパスで開講しているほか、全学部の学生を対象に授業をすべて英語で行う「グローバル・オープン科目」や、ネイティブスピーカー講師による英語スキルの養成などを目的とした「英語強化プログラム (ERP)」、ネイティブスピーカーと英語で自由に会話できる「Gラウンジ (Global Lounge)」を、市ヶ谷・多摩・小金井の全キャンパスに設けている[11]。 2003年より教育の質を向上させることを目的としたファカルティ・ディベロップメント(Faculty Development、通称FD)プログラムを実施している。具体例としては、授業の満足度等を学生が評価する「学生による授業評価アンケート」を年2回行っている。 2008年には総長室に「大学評価室」を付置し、自己点検・評価のための情報収集・調査・分析などを行っている。[先頭へ戻る] (沿革節の主要な出典は公式サイト[12])「東京法学校」および「東京仏学校」も参照 法政大学の前身である東京法学社は、1880年(明治13年)4月、当時の神田区駿河台北甲賀町に設立された[13]。 フランス法の流れを汲む金丸鉄・伊藤修・薩?正邦・堀田正忠・元田直ら7名[注釈 3] の法律家・司法省関係者によって創立されたもので、「教師を聘し、専ら我国の新法を講義し、又仏国法律を講義す」る講法局と、「上告、控訴、初審の詞訟代言を務め、又代言生を陶冶す」る代言局で構成されていた。つまり、学内に弁護士事務所を置いて、学生に弁護士業務を体験させるリーガル・クリニックを備えた現代の法科大学院の原型といえる。 しかし、同年5月に「代言人規則」(現在の弁護士法に相当)が改正され、代言人組合以外に「私に社を結び号を設け営業を為したる」代言人は懲戒の対象となったため[14]、代言局での実務教育は続行できなくなった[15]。そのため、東京法学社は講義中心の通常の法律学校としての性格を強め、薩?が中心となって1880年(明治13年)9月12日に「開校」。翌1881年(明治14年)5月に講法局が独立して東京法学校と改称した。 1883年(明治16年)には、ボアソナードが初代教頭に就任。パリ大学から招聘された日本政府の法律顧問で、不平等条約の撤廃のため日本の近代法整備に大きく貢献した。その功績から「日本近代法の父」[16][17][18] と呼ばれている。その後、1886年(明治19年)に帝国大学特別監督学校となり、1888年(明治21年)には文部省令第3号「特別認可学校規則」[19] により特別認可学校となった[20]。
ボアソナード博士像。1934年フェリックス・ベヌトー作。最高裁判所とパリ大学にも同じ原型の胸像が置かれている。
梅謙次郎文化人切手。1952年郵政省発行。昭和以前に切手の題材となった唯一の日本人法学者。
理念・目的
自由な学風と進取の気象
2. 本学の使命は、学問の自由に基づき、真理の探究と「進取の気象」によって、学術の発展に寄与することである。
3. 本学の使命は、激動する21世紀の多様な課題を解決し、「持続可能な地球社会の構築」に貢献することである。」
教育・研究
沿革
草創期の歴史
東京法学社から東京法学校へ日本近代法の父で法政大学の学祖でもあるボアソナード。日本最初の近代法典の起草者として国内法整備に大きく貢献したほか、司法省を中心に、太政官、元老院、外務省、国際法の顧問も務め、日本の勲章を受章した最初の外国人となった[注釈 2]。また、10年以上にわたり、無報酬で法政大学の基礎を築いた。
東京法学社および東京法学校の主な関係者
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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