1886年(明治19年)4月に、辻新次(初代文部次官)・古市公威(帝国大学工科大学初代学長)・長田_太郎(宮内省式部官、明治天皇の通訳)・山崎直胤(内務省初代県治局長)・平山成信(後の枢密顧問官)・寺内正毅(後の第18代内閣総理大臣、元帥陸軍大将)・栗塚省吾(後の大審院部長判事)の7名が、フランス学の普及を目的とした教育機関設立を計画。
同年5月に仏学会 (La Societe de Langue Francaise) が組織され(初代会長は辻新次)、11月に同学会が神田区小川町の東京法学校の正面に東京仏学校を設立した(初代校長は古市公威)[21]。
同校は1885年(明治18年)に旧東京大学に統合された官立の仏法系学校・司法省法学校の後身校的な性格をもち、フランス語で教授する法律科を有し、政府からは手厚い資金援助を受けていた。
また仏学会の会員には、名誉総裁に伏見宮貞愛親王、閑院宮載仁親王、小松宮依仁親王(後に東伏見宮)、名誉会員に徳川昭武(第15代将軍徳川慶喜の弟、水戸藩第11代藩主)、徳川篤敬(水戸徳川家第12代当主)、鍋島直大(佐賀藩第11代藩主)、蜂須賀茂韶(徳島藩第14代藩主)、太田資美(掛川藩第7代藩主)、大木喬任(元老院議長、枢密院議長)、山田顕義(司法大臣)、ボアソナード、アッペール等が名を連ね[22]、彼ら会員からの支援も受けながら東京仏学校は設立・運営された[23]。
なお、当時の文部官僚トップで東京仏学校設立の中心人物であった辻新次と、当時の司法省刑事局長で後に東京法学校の校長に就任した河津祐之は、1872年(明治5年)頃の文部省において箕作麟祥のもとで学制の起草にあたっていた元同僚であり[24]、両者とも仏学会の創立会員である。
当初はフランス学を教授することを目的としていたが、法律科の設置以降は法律学校としての性格を強め、1888年(明治21年)に文部省令第3号「特別認可学校規則」[19] により特別認可学校となった[25]。 フランス法系の結集を図るため、1889年(明治22年)5月の仏学会臨時総集会において、東京法学校と東京仏学校の合併ならびに和仏法律学校への改称が決議され、9月9日に同校が正式に発足した[26]。 初代校長には、当時の司法次官(司法官僚トップ)で日本における「法律の元祖」[27] といわれる箕作麟祥が就任。以後、日本の現行諸法典を創った法典調査会の中心人物が校長に就任している。その中でも、「日本民法典の父」[28] といわれる梅謙次郎は、20年間にわたり学監、校長、初代総理として、本学の発展に大きく貢献した。 梅が校長を務めていた1903年(明治36年)に法政大学と改称(専門学校令準拠)。その後、1920年(大正9年)に日本の私立大学では慶應義塾大学・早稲田大学についで、最も古い段階で大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。
仏学会および東京仏学校の主な関係者
仏学会名誉総裁であった伏見宮貞愛親王。皇族。第4代内大臣。大勲位菊花章頸飾。理化学研究所創設時に総裁に就任。
会則改正により仏学会総裁に就任した閑院宮載仁親王。皇族であると同時に元帥陸軍大将。仏学会が日仏協会へ移行後も、初代総裁に就任。
仏学会名誉会員であった徳川昭武。江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の弟。水戸藩第11代藩主。将軍の名代としてパリ万博に出席。
仏学会名誉会員であり、東京仏学校の商議委員を務めた蜂須賀茂韶。徳島藩第14代(最後)の藩主であり、公爵。貴族院議長、文部大臣を歴任。
東京仏学校設立のため辻新次や古市公威らと仏学会を組織し、創立会員となった寺内正毅。後の第18代内閣総理大臣、元帥陸軍大将。
東京法学校と東京仏学校の合併