法政大学
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53年館は老朽化のペースが予想以上に激しいことが判明したため[137]、1995年に第U58年館とともに解体された[注釈 30]。跡地にはボアソナード・タワーが建設され、ボアソナード博士像も同タワー内に再設置されている[136]
55年館

右が55年館、中央から左が58年館

1955年(昭和30年)に竣工した地上7階・地下1階建ての校舎。当時の工学部教授であった大江宏の設計によるモダニズム建築の建物で、58年館と一体になっていた。正門側から見て右側にあたり、市ケ谷キャンパス最大の教室であった511教室や、各種大・中教室(のちに小教室も設けた)、学生食堂などが入っていた。校舎としては日本最初の鉄骨高層の建築物といわれ[138][139]、また当時としては珍しかった[140] 1階から7階まで続くスロープのほか、カラー・コンディショニングなどの多くの新しい試みも実用化され[140]、58年館とともに、1958年に第10回日本建築学会賞作品賞、1960年に第1回BCS賞を受賞している。55年館の落成記念式典には、安藤正純文部大臣、島田孝一日本私立大学連盟会長らが出席した。

建設されたのは戦後間もない資金的にも苦しい時期であったが、当時の大内兵衛総長の判断で着工され、511教室前の壁には大内の揮毫による「学而不思則罔 思而不学則殆」(学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し 『論語』為政篇)のレリーフが掲げられていた(2019年に大内山校舎に移設)。
58年館左から丹下健三、大江宏、1人おいて岡本太郎左から内田祥三、大内兵衛、1人おいて堀口捨巳

1958年(昭和33年)に竣工した地上7階・地下1階建ての校舎。大江宏の設計によるモダニズム建築の建物で、55年館と一体になっていた。正門側から見てピロティを含む左側にあたり、各種教室、学生ホール、地下商店街、学生食堂、事務室、教授室、理事室、総長室などが入っていた。竣工した年に55年館とともに第10回日本建築学会賞作品賞、1960年に第1回BCS賞を受賞しており、戦後の法大を代表する校舎であった。58年館の竣工記念行事には、元東京帝国大学総長で安田講堂などの設計を手掛けた建築家の内田祥三や、後に日本人初のプリツカー賞受賞者となる建築家の丹下健三、戦前にフランスで過ごした芸術家の岡本太郎らが参加している(右の画像はその時の写真)。岡本太郎は、完成直後の58年館を見て「私が見た世界の大学建築の中で、光線の考察や設備の点で群を抜いている」と評した[141]

なお、53年館に隣接して第II58年館も建設されたが、こちらは53年館とともにボアソナード・タワーの建設に伴い解体された。

55年館と58年館の欠点は大・中教室ばかりで、語学やゼミなどには利用しづらいことであった[注釈 31]。この欠点を克服するために小教室中心の62年館(現・市ケ谷田町校舎)と69年館(現・法科大学院棟)が建設されることになる。

55年館と58年館は竣工から約60年を経た後に、エレメント(ディテール)、素材感、スケール等を継承した、2016年竣工の富士見ゲートおよび2019年竣工の大内山校舎に建て替えられ[142]、跡地には市ケ谷キャンパス中央広場が整備された(2021年竣工)[143]。また、この中央広場には、55・58年館の床石のパターンを模した「メモリアルコリドー」と呼ばれる通路や、柱があった位置に柱に見立てたスツール(背もたれや肘掛けのない椅子)も設置された[144]。[先頭へ戻る]
基礎データ
所在地

市ケ谷キャンパス(
102-8160 東京都千代田区富士見2-17-1)

多摩キャンパス(194-0298 東京都町田市相原町4342)

小金井キャンパス(184-8584 東京都小金井市梶野町3-7-2)

象徴
校章

校章のデザインは旧制専門学校の時代から何度か変更があり、現在の校章は1930年に制定された[145]。長い伝統と永遠の真理をイメージして「大学」の二文字を亀の子型に図案化している。考案したのは当時の教授で建築家の山崎楽堂(本名 山崎静太郎)である[145]。画像は帽章
エンブレム校旗・画像募集中

エンブレムは、校章と頭文字「H」、シンボルモチーフの組み合わせで構成されている。シンボルモチーフの羅針盤は、「その先の自分」の進む方向性を示す「進歩」の象徴、鳥の羽は、その進む方向に向かって「自由」に飛翔する強い意志の象徴であると説明されている。
校旗校旗・画像募集中

現在の校旗は、2008年1月に改めて作られたもので初代から数えて3代目に当たる。初代の校旗は戦災で焼失し、2代目は1947年に当時の学生課長が学生自治会と相談して、学生から5銭、10銭と醵金(きょきん)を集め、校章スクールカラーを配することを条件として高島屋に一任したもので、制作費は15,000円であった。入学式学位授与式の際に掲揚する以外は、通常目にする機会はない。
略旗略旗(市ケ谷キャンパス外濠校舎より)

縦3列にスクールカラーで色分けされ、中央に「法政」を表すアルファベットの「H」を配したシンプルなもの。中央部分にはオレンジを、その他の部分で青紫)を使用。通常時は大学のシンボル旗として略旗が使用されているため、法政の旗というとこれを思い浮かべる者が多い。大学スポーツの応援や、大学グッズなどにもたいていこの略旗が用いられるため、法大生や受験生の間でも「法政の旗=略旗」のイメージが強い。略旗のデザインの起源については、応援団の「団旗」によるものと考えられている。1990年にはそれまで不明瞭だった寸法が正式に縦180cm、横270cmと制定され、中央の「H」の位置をはじめとする細かな寸法も定められた。
校歌

法政大学校歌

1931年(昭和6年)1月制定。佐藤春夫作詞・近衛秀麿作曲


佐藤春夫(左・1892年-1964年)
近衛秀麿(右・1898年-1973年)

現在歌われている2代目の校歌

初代校歌「名大いなれ法政」は格調高い歌ではあったが、六大学の野球応援では迫力を欠いたため、学生たちからより力強い校歌を求める声が上がった。

折からの法政スピル(スピリット)運動が盛り上がりを見せる中で1929年(昭和4年)11月、応援団の学生らにより「新学生歌作成準備委員会」が結成され、活発な募金活動も行われた。

学生対象の歌詞公募では当選作がなかったため、投票により作詞を佐藤春夫(当時の予科講師)、作曲を近衛秀麿に依頼することに決定した。

しかし近衛は佐藤の歌詞では作曲できぬといい、両者の間で激しい論争が起きた。その後、佐藤は未完のまま故郷の熊野に隠退した。改訂版の歌詞は学生委員を通じて熊野から届けられ、近衛はヨーロッパへの演奏旅行に向かう最中にシベリア鉄道の車内で楽譜を書き上げた。

新校歌の後押しを受けた法政大学野球部1930年(昭和5年)秋のリーグ戦で悲願の初優勝を成し遂げた[146][147][148][149]

作曲家の團伊玖磨は早稲田・明治とともに法政の校歌が「六大学の校歌の中で最も優れたもの」であり、「終りの”法政 おお わが母校”を二度繰り返す部分の旋律が実によく出来ているし、又美しくもある」と評している[150]

大学ホームページ上で試聴ができるほか[151]、多くのカラオケボックスで曲目一覧に掲載されている。また着うた着うたフル着信メロディでも配信されており、法政大学アリオンコール等の法政大学の合唱団や音楽サークルが楽曲を提供している。
応援歌ほか


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