1921年(大正10年)に旧江戸城外堀沿いの富士見町4丁目12・13番地(現在の市ケ谷キャンパス)に竣工した木造モルタル3階建ての校舎。
3階小教室4、中講堂(合併授業用)、大講堂
2階小教室(十数室)
1階学長室、教員室、事務室、学生控室など
3階の大講堂では、各種式典や講演会などが行われ、日本美術院の展覧会や学生たちによる外国語劇なども催された[39]。第一校舎の竣工記念に、ヴィルヘルム・ゾルフ駐日ドイツ大使を招待してゲーテ作のドイツ語劇『ファウスト』が上演されたほか[38]、1922年にはロマン・ロラン作のフランス語劇やオーガスタ・グレゴリー作の英語劇なども上演された[39]。また、国賓として来日[115] したフランスのジョッフル元帥が1922年2月に来校した際に、学生を励ます演説を行ったのも、この大講堂であった[39]。
1923年に発生した関東大震災での損害は軽微で[116]、授業再開も早かったため、その翌年から法政大学への入学志願者が急増することになった[117]。 戦前の法大を代表する校舎であったが、1945年5月25日から26日にかけての米軍による空襲によって焼失した[118]。
旧第二校舎
手前の白い外壁の3階建てビル
1922年(大正11年)に竣工した建坪が207坪の木造3階建ての校舎[113]。第一校舎に接続して建てられ[113]、大小の教室のみが設けられていた[119]。主に学部の授業に使用されたが[119]、第一校舎とともに空襲により焼失した。
旧第三校舎(戦後は第一校舎)
旧第三校舎講堂
法政大学擬国会
1927年(昭和2年)に竣工した鉄筋コンクリート地上4階・地下1階建ての校舎。山下啓次郎の設計によるもので、完成当時は小講堂や図書館機能を有し、名称は第三校舎であったが、戦後は第一校舎と称されるようになる。末期には国際交流センターやキャリアセンターなどが入っていた。
2007年の外濠校舎完成後に取り壊され、これを最後に市ケ谷キャンパスからは戦前の校舎が全て姿を消すことになった。2007年4月21日には第一校舎の顕彰イベントが行われ、山下啓次郎の孫にあたるジャズピアニストの山下洋輔の演奏会などが催された[120]。なお、山下洋輔の母方の祖父は元法大総長の小山松吉である。 1928年(昭和3年)に竣工した鉄筋コンクリート校舎。蒲原重雄の設計によるもので、その名の通り六角形を2つ組み合わせた形をしており、内部の螺旋階段が特徴的な校舎であった。しかし日本の学生運動が激化した1970年に東京教育大学生リンチ殺人事件が発生し[121]、管理上の問題から同年10月に解体された[122]。 昭和初期には市ケ谷の校舎が手狭になったため、近隣地の取得を目指していたが[123]、東京横浜電鉄(現・東急)から川崎市木月所在の日活撮影所予定地[124](1万坪)を無償提供されることになり、この地に大学予科を移転することになった。これには校友で教授の児玉正勝
旧第四校舎(戦後は第二校舎、通称「六角校舎」)
木月校舎(予科→第一教養部→第二中学・高校)
木月校舎(予科時代)の時計塔
木月校舎正門から見た時計塔
法政大学第二中・高校の旧時計塔
鉄筋コンクリート3階建て、中央に時計塔の聳えた白亜の校舎は、1936年(昭和11年)10月に落成式が行われ[126]、1939年(昭和14年)までに野球場、陸上競技場、ラグビー場、プールなども順次建設され、さらに法政大学第二中学校(現在の二中高)も同地に設立された。
1945年(昭和20年)5月23日夜の空襲で時計塔校舎は無事だったが、付属の木造建築物(図書館、二中校舎、野球部合宿所など)の多くは焼失した[127][128]。終戦直後には占領軍が木月校地を一部接収し(1948年まで)[129]、二中校舎の焼け跡や校庭は軍用トラックの駐車場、菜園と化していた野球場は米軍専用球場となり、銃を持った米兵がしばしば教室を巡検した[130]。
新制法政大学の第一教養部が1958年(昭和33年)に市ケ谷への移転を完了した後、時計塔校舎は二中高に引き継がれ、竣工から約80年を経た2014年に、2代目の時計塔校舎に建て替えられている。
麻布校舎
三ノ橋の中央労働学園校舎
統合後は麻布校舎となり工学部や大原社研などもここに入居していた。
1951年(昭和26年)に法政大学と合併した中央労働学園大学から受け継いだ鉄筋コンクリート4階建て、延べ面積800坪の校舎。翌年から社会学部と工学部、法政大学第一工業高等学校の校舎となった。