法政大学の前身である東京法学社は、1880年(明治13年)4月、当時の神田区駿河台北甲賀町に設立された[13]。
フランス法の流れを汲む金丸鉄・伊藤修・薩?正邦・堀田正忠・元田直ら7名[注釈 3] の法律家・司法省関係者によって創立されたもので、「教師を聘し、専ら我国の新法を講義し、又仏国法律を講義す」る講法局と、「上告、控訴、初審の詞訟代言を務め、又代言生を陶冶す」る代言局で構成されていた。つまり、学内に弁護士事務所を置いて、学生に弁護士業務を体験させるリーガル・クリニックを備えた現代の法科大学院の原型といえる。
しかし、同年5月に「代言人規則」(現在の弁護士法に相当)が改正され、代言人組合以外に「私に社を結び号を設け営業を為したる」代言人は懲戒の対象となったため[14]、代言局での実務教育は続行できなくなった[15]。そのため、東京法学社は講義中心の通常の法律学校としての性格を強め、薩?が中心となって1880年(明治13年)9月12日に「開校」。翌1881年(明治14年)5月に講法局が独立して東京法学校と改称した。
1883年(明治16年)には、ボアソナードが初代教頭に就任。パリ大学から招聘された日本政府の法律顧問で、不平等条約の撤廃のため日本の近代法整備に大きく貢献した。その功績から「日本近代法の父」[16][17][18] と呼ばれている。その後、1886年(明治19年)に帝国大学特別監督学校となり、1888年(明治21年)には文部省令第3号「特別認可学校規則」[19] により特別認可学校となった[20]。
東京法学社および東京法学校の主な関係者
薩?正邦。東京法学校主幹として草創期の運営に尽力した後、京都大学法学部の源流となる第三高等中学校法学部の開設当初から指導にあたった。第三高等学校法学部初代教授。
金丸鉄。元田直の協力のもと東京法学社を設立。日本最初の法律専門雑誌『法律雑誌』の創刊者。
伊藤修。金丸、薩?と共に東京法学社創立に参画。代言局を担当。明治時代の代言人(弁護士)。
司法省刑事局長時代に東京法学校の校長に就任した河津祐之。元老院書記官、大阪控訴院検事長、名古屋控訴裁判所検事長、司法大書記官、逓信次官等を歴任。
仏学会・東京仏学校の設立仏学会の創立会員であり、初代会長に就任した文部次官の辻新次。近代的教育制度の策定に尽力し、「教育社会の第一の元老」「明治教育界の元勲」と評された。仏学会創立会員で、帝国大学工科大学初代学長と東京仏学校初代校長を兼任した古市公威。土木学会初代会長、日本工学会理事長、理化学研究所第2代所長。
1886年(明治19年)4月に、辻新次(初代文部次官)・古市公威(帝国大学工科大学初代学長)・長田_太郎(宮内省式部官、明治天皇の通訳)・山崎直胤(内務省初代県治局長)・平山成信(後の枢密顧問官)・寺内正毅(後の第18代内閣総理大臣、元帥陸軍大将)・栗塚省吾(後の大審院部長判事)の7名が、フランス学の普及を目的とした教育機関設立を計画。
同年5月に仏学会 (La Societe de Langue Francaise) が組織され(初代会長は辻新次)、11月に同学会が神田区小川町の東京法学校の正面に東京仏学校を設立した(初代校長は古市公威)[21]。
同校は1885年(明治18年)に旧東京大学に統合された官立の仏法系学校・司法省法学校の後身校的な性格をもち、フランス語で教授する法律科を有し、政府からは手厚い資金援助を受けていた。
また仏学会の会員には、名誉総裁に伏見宮貞愛親王、閑院宮載仁親王、小松宮依仁親王(後に東伏見宮)、名誉会員に徳川昭武(第15代将軍徳川慶喜の弟、水戸藩第11代藩主)、徳川篤敬(水戸徳川家第12代当主)、鍋島直大(佐賀藩第11代藩主)、蜂須賀茂韶(徳島藩第14代藩主)、太田資美(掛川藩第7代藩主)、大木喬任(元老院議長、枢密院議長)、山田顕義(司法大臣)、ボアソナード、アッペール等が名を連ね[22]、彼ら会員からの支援も受けながら東京仏学校は設立・運営された[23]。
なお、当時の文部官僚トップで東京仏学校設立の中心人物であった辻新次と、当時の司法省刑事局長で後に東京法学校の校長に就任した河津祐之は、1872年(明治5年)頃の文部省において箕作麟祥のもとで学制の起草にあたっていた元同僚であり[24]、両者とも仏学会の創立会員である。
当初はフランス学を教授することを目的としていたが、法律科の設置以降は法律学校としての性格を強め、1888年(明治21年)に文部省令第3号「特別認可学校規則」[19] により特別認可学校となった[25]。
仏学会および東京仏学校の主な関係者
仏学会名誉総裁であった伏見宮貞愛親王。皇族。第4代内大臣。