法幣
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発行準備は、銀による現金準備が60パーセント、政府発行または政府保証の有価証券による保証準備が40パーセントであった[1]。外貨との関係は、イギリスポンドにリンクし、1935年11月4日の公定為替相場は、1元につき1シリング2ペンス1/2、100元につき米ドル29ドル3/4、100元につき103(日本)円であり、無制限に売り応ずることとされたが、銀準備は、法幣に対しては払い出されない管理通貨方式であった[1]

突如として決められた銀国有化と紙幣流通への一本化は、各方面に混乱と反発を生んだ[3]。紙幣への信用が概して低かったこともあり、金融知識に疎い農民層における売買取引では殆ど現銀が使用されていた故、現銀の使用や所有を禁じる布告は農民を不安と恐慌に陥れることになった。また銀行も、所有していた銀を強制的に没収され、兌換不能による紙幣価値の下落と通貨不安による物価高騰の恐れから外人銀行団まで含めて反対を表明し[4]、更には広東省が一時的に銀国有制度から離脱する事態にまで発展した[4]。結局翌1936年に国民政府がアメリカと協議した結果、中国よりアメリカへの銀の輸出を認める代償として、アメリカドルを法幣発行に必要な準備外貨とし、これにより法幣はアメリカドルとの固定相場を採用することとなった。

この通貨改革では中央銀行により発行されたのが不換紙幣である点が当時の中国では進歩的な金融制度改革であり、近代国家の金融体制下では必然的な制度であるとする見解がある。法幣の発行は中国国内の通貨を統一し、通貨発行権限を政府に集中し、また国内の銀貨等の硬貨を政府に帰納させ、日中戦争の戦時体制財政を維持するのに効果があったといわれている。しかし法幣発行により民間の富を政府が強制的に接収したという否定的な見解も出されている。
日中戦争から崩潰へ

1937年日中戦争勃発以前、法幣の総発行高は14億4,400元に達した[1]。1937年から1941年の期間中、日本は中国の経済破壊を目的に占領地に於いて軍票等を発行し法幣を回収し、それを上海に送り国民党政府の外貨を消費させた。これに対し国民政府はイギリス、アメリカより1,000万ポンドと5,000万ドルの借款を受けて法幣の信用維持に努めたが価値の下落が続き、1940年には外貨への交換に制限額が定められ、これを契機に法幣の価値は一気に下落した。

日中戦争期間中、増加し続ける財政支出を補填する為に法幣が大量に発行され、1945年の終戦時には発行高は5,569億元、戦前の400倍まで規模が膨らんだ。1946年以降、国民党政府は国共内戦での戦費調達に更に法幣を大量に発行し、1948年8月には発行高は604兆元にまで及び、僅か3年間で1,000倍にまで増加し、市場にスーパーインフレを招来した[1]。あまりにも価値の下がった法幣は製紙会社の原料に使われるまでになったという。宋子文行政院長に就任すると、法幣の安定を図るために備蓄金を放出して貨幣安定を試みるが、法幣の発行量に追いつかず失敗に終わった。1948年5月に行憲選挙が行なわれ翁文?が行政院長に任命されると、王雲五財政部長に任命し貨幣改革を実施、新たに金円券を発行し法幣の流通を停止した。
時系列

1934年8月 アメリカが銀買上法
を施行し、中国から銀が流出

1935年7月 国民政府が妨害國幣懲治暫行條例を布告し、金銀及び硬貨の外国への移動を禁止

1935年11月4日 国民政府が財政部改革幣制令を布告し、法幣を発行

1935年11月15日 国民政府が兌換法幣?法を布告

1935年11月29日 国民政府が兌換法幣收集現金?法を布告

1938年3月10日 中華民国臨時政府中国聯合準備銀行を設立し、法幣の対抗となる聯銀券を発行し、旧法幣の制限を行う旧通貨整理?法及び経済撹乱行為取締?法を公布

1938年3月14日 国民政府が外匯申核制度を行い、為替の統制を行ったため、ブラックマーケット (黒市)が生まれる[5]

1938年4月 国民政府が商人運貨出口及售結外匯?法を公布し、為替の統制を進める

1938年6月 国民政府が限制攜運鈔票?法を公布

1938年9月 国民政府が金類兌換法幣?法を公布

1939年1月 国民政府が、聯銀券の取締を行う取締敵偽鈔票?法 (取締日偽鈔?法)を公布する

1939年7月 日英間で有田=クレーギー協定が結ばれ、イギリスが連銀券の流通を認める

1939年8月 国民政府が私運法幣及其他禁運物品出口檢??法を公布する

1939年9月 国民政府が、日本の杉工作に対抗して、日人偽造法幣對付?法を公布する

1939年10月 国民政府が限制私運?金出口及運往淪陷區域?法を公布し、外国および被占領地区への金(きん)の移動を禁止した

1939年10月 国民政府と英国が英支共同法幣安定資金委員会 (中英外匯平準基金委員会)を設立

1940年5月 国民政府が管理各省省銀行或地方銀行發行一元券及輔幣券?法を公布

1941年4月 英米中間で法幣安定資金協定が結ばれる

1941年8月 英米中により中美英平準基金委員会が設立される

1948年8月 中華民国政府が幣制改革を行い、法幣に代わり金円券を発行する

出典^ a b c d e f g アジア歴史事典(1985年)第8巻277ページ「法幣」の項
^ 高木翔之助『冀東から中華新政権へ』北支那社、1938年、pp.16-17頁。 
^ 高木 1938 p.17
^ a b 『東京朝日新聞』1935年12月8日付朝刊 4面
^ 『戰後上海的金融』 寒? 1941年

参考文献

『中華民國財政金融法規』國民政府財政部 1946年

関連項目

中国聯合準備銀行・華興商業銀行・中央儲備銀行 - 日中戦争中に日本側の傀儡政権側が設置した銀行

中国人民銀行 - 中華人民共和国の中央銀行で人民元を発行










中国の貨幣
貨幣単位

廃止









現行








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