沿ドニエストル共和国
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概要

沿ドニエストル共和国は、独自の政府議会、軍隊、警察、郵便制度、通貨、車両登録を有する。また、独自の憲法、国旗、国歌、国章を承認している。2022年時点、国旗において旧ソビエト連邦の国旗にあった「鎌と槌」を採用している唯一の国である。

モルドバとドニエストル左岸地域の未承認国家(沿ドニエストル共和国)の間で1992年に勃発したトランスニストリア戦争は、ロシアの支援を得た沿ドニエストル共和国が勝利し、ドニエストル左岸地域の大部分に対して、同国による実効支配が続くこととなった。以後、この地域にはロシア連邦の「平和維持軍」が駐留しており、保安維持している。

沿ドニエストル共和国は、アブハジアアルツァフ南オセチアの、国際的にほぼ承認されていない3つの国家にしか承認されていない[2]。国際的には当地域はモルドバの一部と認められており、モルドバは当地域を、特別な法的地位を有する自治地域ドニエストル左岸行政区画ルーマニア語: Unit??ile Administrativ-Teritoriale din stinga Nistrului)と定めている[3][4][5][6]
国名「en:Names of Transnistria」を参照

沿ドニエストル共和国は、ロシア語モルドバ語ウクライナ語公用語としており、それぞれの語による正式名称が存在する。正式名称と略称、省略形は以下の通りである。

自称であるため、どの名称においても「?の向こう側」を表す「トランス」という表現は含まれていない。

なお、沿ドニエストル共和国で用いられる「モルドバ語」は実質的にルーマニア語と同じであるが、表記にはキリル文字が用いられる。

正式名称ラテン文字転写
ロシア語Приднестровская Молдавская Республика (ПМР)Pridnestrovskaya Moldavskaya Respublika
モルドバ語Република Молдовеняскэ Нистрянэ (РМН)Republica Moldoveneasc? Nistrean?
ウクライナ語Придн?стровська МолдавськаРеспубл?ка (ПМР)Prydnistrovska Moldavska Respublika

また、略称は以下のとおりである。

略称ラテン文字転写
ロシア語ПриднестровьеPridnestrovie
モルドバ語НистренияNistrenia
ウクライナ語Придн?стров'яPrydnistrovia

日本語では、沿ドニエストルまたはトランスニストリアが用いられるが、これらはロシア語名称「Приднестровье」(「ドニエストル川沿い」の意)および、ルーマニア語名称「Transnistria」(「ドニエストル川の向こう」の意)に由来している[7]。Transnistriaという語は、1989年、モルドバ人民戦線のメンバーであるモルドバ人代議士レオニダ・ラリの選挙スローガンの中で使われたのが最初である[8][9][10]

一方、モルドバ政府は、この地域を「Unit??ile Administrativ-Teritoriale din Stinga Nistrului(ドニエストル左岸行政区画)」と規定している。

国際機関ではトランスドニエストル (Transdniester) という呼称が用いられる。略称はПМР(PMR)で、ロシア語の名称「Приднестро?вская Молда?вская Респу?блика」(Pridnestrovskaya Moldavskaya Respublika、沿ドニエストル・モルドバ共和国)に由来する。
歴史詳細は「en:History of Transnistria」を参照
古代

この地域にはトラキアスキタイの部族が住んでいた。紀元前600年頃、ドニエストル川の河口近く(現在のウクライナ領ビルホロド=ドニストロフスキー)にティラス(Tyras、ドニエステル川の古代名)という古代の植民都市が築かれた。4世紀にはゴート族が黒海沿岸部のティラスとオルビア(Olbia)を征服した。ゴート族はドニエストル川の両岸に分かれて居住し、後にそれぞれ西ゴート族東ゴート族と呼ばれることとなった。

古代末期、東ローマ帝国は、破壊されたティラスの領域に城砦都市を建設し、アスプロカストロンと名づけた。その後オスマン帝国の侵攻を受けた際、この都市の住民の一部がドニエストル川上流に逃れて小さな集落を形成し、これが後のティラスポリとなった[11]
中世

6世紀には、トランスニストリアに南スラヴ人を含む様々な民族と文化が到達した。東スラヴ系民族も住んでいた可能性があるが、テュルク系民族に北に押しやられた[12]

10世紀にはこの地域にルーマニア系民族が住んでいたことが『原初年代記』に記されている[12]

11世紀頃にはキエフ大公国の支配下に入ったこともあった[12][13][14]

14世紀にはジェノヴァ共和国の支配下に置かれ、対外貿易の拠点となった。

14世紀中頃に成立したモルダヴィア公国は、14世紀末までにドニエストル川まで版図を広げたが、その向こう側(トランスニストリア)に支配が及ぶことはなかった。

15世紀には正式にリトアニア大公国の一部となった。この頃、現在のモルドバの大部分がオスマン帝国の支配下となったが、トランスニストリアの大部分は1793年の第二次ポーランド分割までポーランド・リトアニア共和国の一部であった。一方トランスニストリアの南部はオスマン帝国の支配下にあった。
ロシア帝国時代

1792年、トランスニストリア南部がオスマン帝国からロシア帝国に割譲され(ヤッシーの講和)、1793年の第二次ポーランド分割で北部が編入された。ロシアはトランスニストリアを「新モルダヴィア」と名付け、新しい公国としてロシアの宗主権下に置くと宣言。人口もまばらであったこの土地に大規模な植民を行った。西の国境であったこの一帯を防衛する意味もあり、多くのロシア人ウクライナ人が移住した。モルダヴィアの農民には非課税の土地が分配され、植民地化を支援することになった。

1812年にロシアはベッサラビアを併合し、トランスニストリアは国境地帯ではなくなった。

第一次世界大戦中、ドニエストル川以西のルーマニア語話者の代表者は、1917年から1918年にかけてベッサラビア民族運動に参加し、彼らの領土を大ルーマニアに編入することを要求した。しかし、ルーマニアは大規模な軍事介入を必要としたため、彼らの要求を無視した[13]

1918年の第一次世界大戦の終結時、ウクライナ人民共和国ディレクトーリヤはドニエストル川の左岸地域に対する主権を宣布した。

ロシア内戦後の1922年、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国(ウクライナSSR)が誕生した。
ソビエト連邦時代

1924年、ベッサラビアの軍事指導者グリゴレ・コトフスキーが、モルダビア自治州の設立を提案した。その後ウクライナSSR内のドニエストル川とブク川の間の領域モルダビア自治州が設立され、同年10月、モルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国(モルダヴィアASSR)として昇格させた[13]。これがトランスニストリア自治領の地政学的構想の始まりである。当時はルーマニア人が住民の大部分を占めており、ルーマニア語で教える学校も開校した。

1927年、ティラスポリやその他の都市で、農民や工場労働者がソビエト連邦当局に対して大規模な暴動を起こしたが、モスクワから派遣された軍隊により鎮圧された。


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