治水
[Wikipedia|▼Menu]
1970年代頃から人工的に整備された河川を自然の姿に近づける試みがスイス西ドイツオーストリアを中心に始まり、1980年代になると近自然的治水工法が本格的に採用されていった。例えば、かつて氾濫原だった箇所を再び遊水池に復旧させる事業や、直流していた河川を蛇行させて自然の姿に近づけ河川を取り巻く生態系を再構築する事業などが精力的に実施されている。21世紀におけるヨーロッパの治水は、必ずしも洪水防止のみを主眼に置くのでなく、自然環境の観点から河川を良好な状態に保ち良質な水源として維持する河川環境復元へとシフトしつつある。水害が比較的少ないヨーロッパでは、治水対策より河川の水質保全が重視される傾向にある。

なお、ヨーロッパの治水管理の現況に触れておく。ドイツでは各州が河川管理を行い水系一貫型の治水ではない。100年に一度規模以上の水害を想定して治水事業が進められ、21世紀初頭までにほぼ達成されている。フランスでは洪水防御の義務を負うのは中央政府ではなく河岸所有者であり、中央政府・自治体だけでなく住民も治水に対して相応の責任を有している。オーストリアでは都市域は100年に一度規模以上、都市以外の地域は30年に一度規模の水害に耐えうる治水が行われているが、大河ドナウ川については非常に高度な治水対策が施され1万年に一度規模の水害を防御しうる治水対策が達成されている。全般的にヨーロッパ各国では、氾濫原を復元し氾濫域内の土地利用を制限する政策が採用されている。
アメリカ合衆国ハリケーン・カトリーナ水害(ニューオリンズ,2005年8月)

アメリカ合衆国における治水は19世紀末まで堤防に頼る地先防御が主流だったが、1917年の洪水防御法の制定によって本格的な治水対策が始まり、陸軍工兵隊と開拓局が中心となってダムの建設や河川改修などが行われた。この時期はテネシー川流域開発事業に代表される大規模な流域総合開発が展開した。この流域総合開発は、大規模ダムの建設などによって治水だけでなく水資源開発や発電開発などを実現しようとするもので、世界各地の治水対策に大きな影響を与えた。

1960年代から堤防などハード(構造物)中心の治水対策の限界が見え始め、氾濫原管理やソフト対策を重視した治水へと移行していった。この時期に始まったソフト面での治水対策として特筆すべきは、連邦政府が運営する全米洪水保険制度(NFIP:National Flood Insurance Program)である。この制度は洪水に伴うリスクを個人が負うのではなく地域コミュニティが負担することを原則としており、ソフト面治水対策の大きな柱である。

1970年代頃からは河川の自然環境の保全・復元が注目されていき、環境保全とバランスの取れた治水対策が求められていくこととなる。同時期にヨーロッパで始まった河川環境の復元事業はアメリカにも導入され盛んに実施されている。1980年代からは州政府や自治体による治水が中心となった。1990年代以降ミシシッピ川大洪水(1993年)やハリケーン・カトリーナ水害(2006年)などの大規模な水害が発生しているが、ソフト面に重点を置いた治水による総合的な対応が精力的に実施されている。
中国長江三峡ダムの工事(2004年7月)

中国の治水は3つの大河、すなわち華北黄河華中淮河華南長江を中心に行われた。特に多量の黄土を含み急速に河床が上昇する黄河は容易に氾濫を繰り返しており、この黄河の治水が最も古い歴史を有している。史記には、帝のときに黄河の洪水が止まらなかったのでに治水を行わせたが9年経っても成果が上がらず罷免され、その子のが事業を引き継ぎ河水の分水によって治水を成功させ、その功績を元に夏王朝の始祖となったことが記されている。もとより禹の治水は伝説であるが、黄河の治水が王朝にとって最重要課題であったことを物語っている。春秋時代の黄河・淮河・長江の流路

中国の治水史は最初の段階では河川付近での居住・農耕を避けることから始まった。当時「河川から25里以上離れた場所に居住すること」という伝承があったように、の時代は河水による小規模な灌漑事業が始まってはいたものの、河川から離れて生活することがほぼ唯一の治水策であった。春秋時代紀元前8世紀 - 紀元前5世紀)になると河川の氾濫域に農地が進出し、河川堤防の建設が見られるようになる。黄河の大堤が建設が始まったのは春秋時代である。戦国時代紀元前4世紀 - 紀元前3世紀後期)には李冰(りひょう)・西門豹(せいもんひょう)・鄭国(ていこく)などの治水技術者が現れ、多くの治水事業を成し遂げたことが『史記』河渠書に記されている。この時代に本格的な治水事業が行われ始めた。当時の治水は分水路運河を設けて河水を分散させ、堤防は高くせず、河床を浚渫したり河流障害物を除去したりする方策が採られていたと考えられている。

期(紀元前3世紀中期 - 2世紀末)は統一王朝のもとで運河・灌漑水路の建設が盛んに行われ、流通や農業生産の向上に大きく貢献した。新朝期には黄河が堤防決壊により流路を大きく変え、その後も堤防決壊が相次いだ。後漢期の70年前後に黄河治水にあたった王景は、数十万人を動員し黄河に長大な堤防を築くとともに黄河を分流させることで黄河の流路安定に成功した。三国時代以降、長江流域から淮河流域にかけて稲作が普及し灌漑水路が増築されたが、そのためかえって洪水が増えた。南宋・金期の黄河・淮河・長江の流路

1128年、北方から勢力を伸ばしてきたの南下を防御するため、南宋は故意に黄河の南側堤防を破壊した。これにより黄河は南東方面に流路を変更し淮河に合流するようになった。宋代の頃から長江流域の経済が活発化し農地の開発などが進むと、長江の治水対策が重要な政策事項として浮上してきた。また、漢代以降治水官吏は冷遇され低い地位とされてきたが、元代に入ると治水・灌漑・水運を三位一体して河川・水路の運用を図ろうとする水学(すいがく)が形成されるようになり、治水官吏に高い地位が与えられるとともに治水官僚体制も整備され、特に地方における治水の発展が見られた。

中華人民共和国の成立以後は近代的な治水が本格的に導入されてダム・堤防・排水路建設による治水が一定以上の効果を挙げ、前代と比べると水害の危険性は大幅に軽減された。その一方で、1970年代から黄河下流での断流(河道に水が流れない現象)が発生し黄河の水量不足が次第に深刻化していった。この背景には黄河流域での水資源の多量使用がある。そのため中国の治水のテーマは「南水北調」、すなわち中国南部の豊富な水資源を水資源の不足する中国北部へいかに配分するかという点にシフトしている。20世紀後期から建設が続いている長江の三峡ダムは洪水調節や発電などの機能を持つだけでなく、黄河方面へ水資源を分配する機能も期待されている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:89 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef