治天の君
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平清盛による院政停止や高倉院政の開始によって治天の地位から追われたことがあったが、清盛の死去と高倉上皇の崩御によって復活、それからは建久3年(1192年)に崩ずるまで治天の地位を保った。

さて、白河院政の後期以降、院への荘園寄進が非常に集中するようになり、皇室は莫大な経済基盤を得ることとなった。これらの荘園はいくつかのグループに分けられ、別々に相続されていった。例としては、鳥羽天皇が皇女の八条院に相続した荘園群である八条院領、後白河が長講堂という寺院に寄進した長講堂領などがある。治天の君は皇室の当主として、これらの厖大な荘園群を総括する権限を有していた。
鎌倉期

後白河天皇の次に治天となったのは、その孫の後鳥羽天皇だった。治承元暦年間(1180年代)の治承・寿永の乱の結果、東国に鎌倉幕府が成立し、独自の支配権を獲得していたが、治天として専制を指向する後鳥羽上皇には、幕府の存在が我慢ならないものだった。

承久3年(1221年)、まだ誕生して間もなく、源実朝暗殺により将軍不在となった幕府の体制を不安定と見た後鳥羽上皇は、幕府の武力排除を試みたが、幕府軍に敗北してしまった(承久の乱)。これにより、後鳥羽上皇及びその直系の上皇・天皇は追放されたが、その結果、後鳥羽上皇の血統に無くかつ世俗に在る皇男子が、後鳥羽上皇の甥で高倉天皇の孫に当たる、当時10歳の茂仁王だけとなり、幕府は茂仁王を後堀河天皇として即位させた。後堀河天皇の父行助入道親王が天皇家の家督者として、治天に就任することとなったが、行助入道親王は天皇位に就いたことがなく、また既に出家していたため、治天の資格要件を欠いていた。しかし緊急事態であることが考慮され、特別に治天となり、事実上の法皇(天皇の例に倣い崩御後に「後高倉院」の院号を贈られた)として院政を布いた。これは、既に治天の存在が不可欠になっていたことを表している。

ところが、近年の研究によって、承久の乱の当時、後鳥羽上皇の血統に無くかつ世俗に在る皇男子が茂仁王の他にもう1人存在したことが判明している。その人物は、茂仁王と同じく後鳥羽上皇の甥で高倉天皇の孫に当たる国尊王(交野宮)であった。ところが、国尊王の父で行助入道親王の弟にあたる聖円入道親王は乱の1か月前に病死しており、父親が治天になることが不可能であったために本人が要件を満たしておりながら皇位継承から外されたと考えられている[13]

承久の乱以降、治天がそれ以前と同等の権力を有することはなく、重要事項は幕府と協議した上で決定することが常態化した。後堀河上皇の没後、四条天皇も12歳で崩御すると、次代の天皇を指名するべき治天が存在しないという事態を招いた。公家の間では順徳天皇の皇子忠成王を擁立する動きがあったが、幕府は土御門天皇の皇子邦仁王を名し、結果邦仁王が後嵯峨天皇として即位した。これは天皇の指名には幕府の承認が必要であるという先例になり、治天の権威が低下しただけでなく、治天の権限の一部を幕府が掌握したことになる[14]

後嵯峨院政の末年には次代の治天の座を巡って後深草天皇の系統(持明院統)と亀山天皇の系統(大覚寺統)が対立した。治天である後嵯峨法皇は没する直前に手ずから譲状を認めたが、明記されたのは長講堂領以外の荘園の相続であり、皇統のことは何も記さず「六勝寺ならびに鳥羽殿以下のことは治天下に依りその沙汰あるべし」(六勝寺並びに鳥羽離宮を次の治天の君に与える)と記されたのみであった[5]。幕府は中宮であった大宮院に問い合わせると、大宮院は後嵯峨天皇の意志は亀山天皇系にあるとした。このため亀山天皇が治天となり、政務を執ることになったが、後深草天皇系はこれに反発して幕府に力添えを頼んだ。幕府の調停の結果、双方が交互に治天の地位に就く両統迭立が行われるようになった。同時に長講堂領は持明院統に、八条院領は大覚寺統に相続されるようになり、経済面でも両統は同程度の実力を持つに至った。

文保2年(1318年)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇の治世では、父であり治天でもある後宇多上皇が元亨元年(1321年)に自発的に院政を停止し、後醍醐による親政が開始された。後醍醐が倒幕を志した理由には諸説あるが、自らの系統に皇位を継承させるためであったと考えられている。
室町期

1333年元弘3年)に始まる後醍醐の建武の新政は数年で失敗に至り、当時最大の実力者だった足利尊氏が幕府政権を樹立することとなった。その際、尊氏は、持明院統の光厳上皇を治天とし、その弟の光明天皇を即位させ、自らは征夷大将軍に就任する。後に美濃守護土岐頼遠が光厳上皇に矢を射掛ける事件を起こした際に、尊氏から事件の処理を任された弟の足利直義は幕府内外から起こる頼遠助命の声を無視してその斬首を強行した。直義は光厳上皇の治天としての権威のみが、室町幕府の政治的な正統性を保障していることを理解していたのである。

正平7年/観応3年(1352年)、北朝・幕府と対立していた南朝は、観応の擾乱に乗じ、北朝側の治天・天皇・皇太子を拉致することに成功した。建前であっても、政治決定には治天の裁可を必要としていたため、幕府及び北朝側の公家は北朝の再開に取り組むこととなった。治天・天皇・皇太子の奪還は困難と見られたため、出家予定であった弥仁王(光厳天皇の皇子)を後光厳天皇とし、京都に残る天皇家の中で最高位者だった広義門院(西園寺寧子、後伏見天皇の女御、光厳・光明の生母)が治天の権能を行使することで対応した。女性で、しかも、国母と言えど皇室出身でない者が治天となるのは前代未聞の事態だったが、これにより北朝は存続することができた。どのような形であれ、治天という存在が政治上、必要不可欠だったのである。

続いて、後光厳の子の後円融上皇である。後円融上皇は明徳4年(1393年)に崩御した。後円融上皇の皇子後小松天皇は、元中9年/明徳3年(1392年)に南北朝合一を実現して後醍醐天皇以来の唯一の天皇となり、皇子称光天皇に譲位して院政を行い、正長元年(1428年)に称光天皇が崩御して皇統が絶えると、伏見宮家から後花園天皇を立てて院政を続けた。

しかし、永享5年(1433年)に後小松上皇が崩御すると院政は事実上の終焉を迎え、それと共に治天の君という存在もまた自然消滅することとなる。実際、次に上皇になった後花園上皇は譲位後に程なく応仁の乱に巻き込まれ、実質的な院政をほとんど行う期間も無く崩御した。その後、財務上の理由などから、天皇の譲位自体が不可能な状況が続くことになる。

江戸時代になると、光格上皇まで院政が度々執られたが、幕府による朝廷統制が強化されたため、朝廷を完全に統制できる治天に該当する存在は生まれなかった。
明治以降

明治時代になると、旧皇室典範の制定と共に太上天皇譲位といった制度が廃止され、同時に治天の君という概念は消滅した。2019年平成31年/令和元年)には、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(天皇退位特例法)に基づき、明仁から徳仁への皇位継承が行われたが、治天の君と天皇が対立した歴史的経緯も踏まえ、天皇退位特例法では退位後の天皇の称号を「太上天皇」ではなく、正式に「上皇」としている。
歴代の治天

治天の君年天皇続柄備考
白河上皇応徳3年(1086年)堀河天皇皇子
嘉祥2年(1107年)鳥羽天皇
保安4年(1123年)崇徳天皇曾孫
鳥羽上皇大治4年(1129年)皇子
栄治元年(1141年)近衛天皇皇子
久寿2年(1155年)後白河天皇皇子
後白河天皇久寿3年(1156年)-親政
後白河上皇二条天皇保元3年(1158年)二条天皇皇子二条天皇期には後白河院の院政と二条天皇の親政が併存していたため、治天の地位については議論の余地がある[4]
後白河上皇永万元年(1165年)六条天皇
仁安3年(1168年)高倉天皇皇子
高倉天皇/上皇治承3年(1179年)高倉天皇-治承三年の政変により後白河院政を停止、高倉天皇による親政。
治承4年(1180年)安徳天皇皇子
後白河上皇治承5年(1181年)孫
寿永2年(1183年)後鳥羽天皇
後鳥羽天皇/上皇建久3年(1192年)-親政
建久9年(1198年)土御門天皇皇子
承元4年(1210年)順徳天皇皇子
承久3年(1221年)仲恭天皇承久の乱により院政停止。
後高倉院承久3年(1221年)後堀河天皇皇子


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