関東方面では氏康の妹婿であった古河公方の足利晴氏は、関東管領(山内上杉家)に支援され、路線を変更して兵を動員、山内上杉家と扇谷上杉家の両上杉家も和睦し、三氏は同盟を締結して武蔵を確保するため共通の敵・北条氏への総反撃を決定、一部の北条方の武士を除く関東の武士すべてに号令をかけ、上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏それぞれが自ら自軍を率いて、北条氏の拠点・河越城の奪還を開始した。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
戦いの経過
出典検索?: "河越城の戦い"
この戦いの模様を伝える当時の史料は少なく、以下は主に後世成立の史料や軍伝・軍記による。
天文14年9月26日(1545年10月31日)、関東管領の山内上杉家(上杉憲政)、扇谷上杉家(上杉朝定)、古河公方の足利晴氏、その他関東諸大名連合軍は約8万の大軍をもって北条氏の河越城を包囲した。一説によれば関東の全ての大名家が包囲軍に参加して、加わらなかったのは下総の千葉利胤のみだったともいわれている。山内憲政は城の南に陣を張り、扇谷朝定は城の北、など三方を包囲した。河越城は氏康の義弟・北条綱成が約3,000の兵力で守備していたが、増援がなければ落城は時間の問題であったため、今川との戦いを収めた氏康は本国から約8,000の兵を率いて救援に向かった。またこの間太田資顕(全鑑)の調略に成功し、河越城へのルートを確保している。食糧を十分に蓄え籠城した綱成は半年も耐え抜き、戦況は数ヵ月間膠着状態であった。この間、長陣に飽きて上杉方の戦意は低下し、軍律は弛緩していた。氏康の救援軍にいた福島勝広(北条綱成の弟)が使者を申し出て、単騎で上杉連合軍の重囲を抜けて河越城に入城、兄の綱成に奇襲の計画を伝えた。
氏康は連合軍に対して偽りの降伏を申し出て詫び状を出し続ける。まず、足利晴氏に対して、諏訪左馬助に依頼し、「城兵を助命してくれれば城は明け渡す」と申し入れ、上杉方には常陸の小田政治の家臣である菅谷貞次に依頼し、「綱成を助命してくれるならば開城し、今までの争いについても和議の上、我らは公方家に仕える」と申し入れた。だが上杉軍は受け入れず、逆に北条軍を攻撃したが、氏康は戦わずに兵を府中まで引いた。これにより上杉連合軍は北条軍の戦意は低いと判断し、およそ10倍近い兵力差もあって楽勝気分が漂う。
天文15年4月20日(1546年5月19日)の夜、氏康は自軍8,000を四隊に分け、そのうち一隊を多目元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。そして氏康自身は残り三隊を率いて敵陣へ向かう。子の刻、氏康は兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせ、山内・扇谷の両上杉勢の陣へ突入した。予期しない敵襲を受けた上杉勢は大混乱に陥り、扇谷上杉軍では当主の上杉朝定、難波田憲重が討死、山内上杉方では上杉憲政はなんとか戦場を脱出し上州平井に敗走したが、重鎮の本間江州、倉賀野行政が退却戦で討死した。氏康はなおも上杉勢を追い散らし敵陣深くに切り込むが、戦況を後方より見守っていた多目元忠は危険を察し、法螺貝を吹かせて氏康軍を引き上げさせた。城内で待機していた「地黄八幡」綱成はこの機を捉えて打って出ると、足利晴氏の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入した。既に浮き足立っていた足利勢も綱成軍の猛攻の前に散々に討ち破られて本拠地の古河へ遁走した。
一連の戦闘による連合軍の死者は1万3,000人から1万6,000人と伝えられている。また、現在の川越市内にある行伝寺の古い過去帳は、上杉五郎殿(上杉朝定)、難波田殿(難波田憲重)とともに、上田小三郎と、川越一戦討死弐千八百廿余人(2820余人)が天文15年4月20日に亡くなったことを記し伝える[1]。行伝寺は地元の上田氏一族によって開かれた寺である。 この戦いの結果、当主を失った扇谷上杉家は滅亡、本拠平井城へ敗走した関東管領の山内上杉家も戦いを契機にこの後急速に勢力を失った。上杉憲政は劣勢挽回を意図して信濃の村上義清らと上信同盟
以上、中の( )の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除き全て和暦、宣明暦の長暦による。
参戦武将
北条軍
本隊
北条氏康
多目元忠
河越城
北条綱成
北条綱房
北条幻庵
大道寺盛昌
山本勘助
両上杉・足利連合軍
山内上杉軍
上杉憲政
本間江州
長野業正
長野吉業
倉賀野行政
上泉信綱
小幡憲重
赤堀上野介
扇谷上杉軍
上杉朝定
難波田憲重
大石定久
太田資正
成田長泰
上田朝直
藤田康邦
足利軍
足利晴氏
小田政治
戦いの影響
同じく敗走した古河公方の足利晴氏もこの直後に御所を包囲され降伏、隠居した。その際、長男であった藤氏ではなく、北条氏出身の母をもつ次男の義氏に家督を譲らざるをえなくなり、自身は幽閉を余儀なくされた。
一方、北条家は関東南西部で勢力圏を拡大し、戦国大名としての地位を固めることになる。甲相駿三国同盟の締結により駿河今川家や甲斐武田家との対立に終止符を打つと、関東制覇を目指し越後の上杉家(長尾氏)や常陸の佐竹家、安房の里見氏との抗争に突入する。
この戦いによって、関東公方たる足利家と、その執事である関東管領の権威と軍事力は決定的に失墜し、代わりに後北条氏をはじめとする戦国大名が躍進した。このことは、関東・東国において室町時代の枠組みが消滅したことを意味している。それとともに、後北条氏の関東での権力を確立した戦にもなった。 河越城の戦いは、約10倍の兵力差を覆しての勝利として、戦史上高く評価されているものの、史料によって合戦の年月日が違うなど不明な点も多く、更なる研究が待たれる。近年では前後に起こった何回かの合戦が天文15年4月20日の出来事として集約されて伝わったとの説が有力である[2]。 国府台の戦い後、足利晴氏は北条氏綱を関東管領とし、氏綱も娘を晴氏に嫁がせるなど円満な関係にあった。その晴氏が北条氏康からの中立要請を無視して北条氏と敵対した理由に関して、難波田善銀ら上杉氏側からの働きかけが功を奏したのは想定されるが、晴氏が氏綱・氏康から何らかの圧迫を受けていたことを示す同時代史料は見つかっておらず、具体的な動機が不明である。また、氏康は合戦直後の6月10日には晴氏の重臣・簗田高助に対し、義明討伐の恩義を忘れて氏綱の子孫を絶やそうとするのは「君子の逆道」であると、晴氏の変節を非難する書状を送っているが、その後も晴氏との対立を回避しようとしていた形跡がある[3]。 これについて、国府台の合戦によって足利義明が滅亡した後の戦後処理が原因であったとする説がある。すなわち、義明が小弓城に本拠を置いたのは、周辺に古河公方の御料所が多くあり、古河公方の巡る争いの中で義明はそれを手中に収めて勢力基盤を確立させたと考えられている。従って、義明が滅亡した後はそれらの土地は古河公方の御料所として回復されると考えていた晴氏とこの地域を軍事力でそのまま当知行化を図ろうとした氏綱・氏康の間で支配争いが生じ、晴氏が北条氏と袂を分かって上杉氏と結んだというものである。
河越夜戦に関する議論
足利晴氏の行動について