三国時代の魏のとき、?陽は洛陽と改められ、河南尹は洛陽・鞏・河陰・成皋・?氏・新城・偃師・梁・新鄭・穀城・陸渾・陽城・陽?・?陽・京・密・巻・陽武・苑陵・中牟・開封・原武の22県を管轄した。242年(正始3年)に、?陽・京・密・巻・陽武・苑陵・中牟・開封の8県が分離されて?陽郡が立てられたが、魏末に河南尹の管轄にもどされた。264年(咸熙元年)に原武県が分離されて原武郡が立てられた。
西晋以後、河南尹は河南郡の称に戻された。266年(泰始2年)に?陽郡が再び分離された[4]。南朝宋のころには、河南・新城・河陰・棘陽・襄郷の5県を領するのみとなった[5]。北魏は太武帝のときに河南郡の上に司州が置かれた。東魏のとき、司州は洛州と改称され、洛州の下に洛陽郡・河陰郡・新安郡・中川郡・河南郡・陽城郡が置かれたため、河南郡は宜遷県を管轄するのみとなった[6]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、河南郡はひとたび廃止された。605年(大業元年)、洛州は豫州に改称された。607年(大業3年)、州が廃止されて郡が置かれると、豫州は河南郡と改称された。河南郡は河南・洛陽・?郷・桃林・陝・熊耳・?池・新安・偃師・鞏・宜陽・寿安・陸渾・伊闕・興泰・?氏・嵩陽・陽城の18県を管轄した[7]。
618年(武徳元年)、唐は郡を廃止して州に改めた。621年(武徳4年)、唐が王世充を破ると、河南郡は唐の支配下に入り、河南郡の呼称は姿を消した。洛州が河南・洛陽・偃師・鞏・陽城・?氏・嵩陽・陸渾・伊闕の9県を管轄することとなった[8]。
脚注^ 『史記』秦本紀
^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、290-293頁。
^ 『後漢書』郡国志一
^ 『晋書』地理志上
^ 『宋書』州郡志三
^ 『魏書』地形志二中
^ 『隋書』地理志中
^ 『旧唐書』地理志一
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