沢田美喜
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1927年日本に帰国[10]

1928年:長女・恵美子誕生[10]

1931年:夫・廉三の英国ロンドンへの転任に伴い同行[10]、孤児院ドクター・バーナードス・ホーム訪問。院長の『捨てられた子を引っ張りだこになるような人間に変えるのは、素晴らしい魔法だ』という言葉に感銘を受ける。

1933年:夫・廉三のフランスパリへの転任に伴い同行[10]ジョゼフィン・ベーカーと出会い友人となり、ジョセフィンは後に美喜の良き理解者として活動を支援していく。またこのころマリー・ローランサンの弟子となる。このころのパリ社交界でコティノーベルらと親交を持つ。

1935年:夫・廉三の米国ニューヨークへの転任に伴い同行[10]パール・S・バックと出会い友人となる。

1936年:米国より帰国[10]

1937年9月12日:妹・澄子死去[10]。敬虔なクリスチャンとなった美喜の影響もあり、死に際して洗礼を受ける。

1939年:日系2世留学生を受け入れる外務省施設「敝之館(へいしかん)」「瑞穂館」の設立に伴い、瑞穂館の応援団長となる。入館者の相談によく乗り、また野球チームのマネージャーになるなど、母親のように慕われた[11]

1942年:夫の沢田廉三日本聖公会系列の財団法人滝乃川学園の第4代理事長に就任(1946年辞任)。

1944年3月10日:母・寧子死去[10]

1945年:三男・晃がインドシナ沖で戦死[10]。海軍志願兵だった。終戦後、旧岩崎邸の本館がGHQ/SCAP参謀部G2(情報部)に接収され、和館での生活を余儀なくされる。1947年にはG2所属の日系2世職員家族が同居し、美喜は誕生した子供の育児指導をしている[12]

1947年2月:列車内で死亡した混血児の母親と間違われ、混血児救済を決心。

1948年2月:孤児院エリザベス・サンダース・ホームを設立する[10]。進駐軍と日本政府から迫害をうけ、経営は窮乏を極めた。

1949年:ホームの寄付金を募るためにアメリカで講演会を行う。このころニューヨークで澤田家はグレース・ケリーと親交をもち、美喜および長女恵美子と親しい友人になる。グレースは、モナコ公妃となったあとも美喜の活動の良き理解者として支援する。

1950年:ホームに基金を作るため、再びアメリカで講演会を行う。

1953年学校法人聖ステパノ学園を創立[10]。ホームの小学校と中学校である。

1955年: 昭和天皇皇后訪園。12月2日:父・久弥死去[13]

1962年ブラジルアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立。孤児院の卒園生が数多く移住。

1967年4月2日に三兄・恒弥が、9月8日に長兄・彦弥太が相次いで死去。

1970年12月8日:夫・廉三死去[14]

1980年5月12日:スペインマヨルカ島にて心臓発作のため78歳で急死。

澤田美喜記念館詳細は「澤田美喜記念館」を参照

沢田美喜は隠れキリシタン資料の収集家でもあった。日本各地から貴重なキリシタン資料874点を収集し、神奈川県中郡大磯町の聖ステパノ学園に保管した。澤田美喜記念館では、このうちの約3分の1の資料を展示している[15]
主な著作
著書

『混血児の母、エリザベス・サンダース・ホーム』(
毎日新聞社、1953年)

『歴史のおとし子 エリザベス・サンダース・ホーム10年のあゆみ』(読売新聞社、1958年)、写真影山光洋ほか

『黒い肌と白い心』(日本経済新聞社、1963年)

新版『黒い肌と白い心 サンダース・ホームへの道』[19](創樹社、1991年/日本図書センター<人間の記録>、2001年)、ISBN 482055963X


『黒い十字架のアガサ』(毎日新聞社、1967年)

『母と子の絆 エリザベス・サンダース・ホームの三十年』(PHP研究所、1980年)

伝記

小坂井澄 『これはあなたの母 沢田美喜と混血孤児たち』(集英社、1982年/集英社文庫、1988年)

青木冨貴子 『GHQと戦った女 沢田美喜』(新潮社、2015年/新潮文庫、2018年)

小手鞠るい『名もなき花たちと』(原書房、2019年)、児童向け

『The LEAST of THESE』(John Weatherchill、Elizabeth Anne Hemphill)

テレビ番組

第9回NHK紅白歌合戦NHK1958年)審査員

『子供たちは七つの海を越えた?サンダースホームの1600人』(日本テレビ系、1978年7月12日放送)

テレビドラマ『母たることは地獄のごとく 炎の女 澤田美喜』(日本テレビ系 1981年7月8日放送 監督・せんぼんよしこ 脚本・早坂暁 配役 京マチ子 市原悦子 大竹しのぶ 樹木希林 他 )

テレビ東京開局45周年記念6夜連続特番第4弾『トンネルの向こうはぼくらの楽園だった』

2009年3月11日放送 『トンネルの向こうは僕らの楽園だった』(テレビ東京)自らもハーフである土屋アンナが、初老を迎えたエリザベス・サンダースホームの卒園生たちを訪ね歩き、彼らの今を見つめた。

2006年8月15日放送 RAMA COMPLEX 『二千人の孤児の母 澤田美喜物語』(日本テレビ系、2006年8月15日 松坂慶子が演じた)



ここ鐘は鳴る 沢田美喜(NHK1958年[20]

受賞・栄誉

エリザベス・ブラックウェル賞(1960年)

朝日社会奉仕賞(1962年)

国際孤児団世界の婦人賞(1965年)

フランス国家功労勲章グランクロワ章

内閣総理大臣顕彰(1966年7月1日)

勲二等瑞宝章(1972年4月29日)

菊池寛賞、アデライデ・リストーリ賞(1978年)

正四位(1980年5月12日)


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