沢柳政太郎
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文部官僚時代の澤柳は、官尊民卑に基づく官公立学校至上主義によって私学の排斥を行っていたが[6]、野に下ってからは積極的に私学も奨励した。同校内に新教育の実験校として、1917年(大正6年)4月4日、成城小学校を創立(成城学園の起源)し、長田新の推薦で広島から小原國芳訓導として招聘。以来、成城学校は大正自由主義教育運動の震源地となる。澤柳自身も1898年(明治31年)にドゥ・ガンの『ペスタロッチー伝』を邦訳、1909年(明治42年)には『実際的教育学』を著すなど、新教育の指導者としての役割を担った。1916年(大正5年)以降は、帝国教育学会会長、大正大学の初代学長も務めた。

1922年(大正11年)、松方幸次郎・木下正雄と尽力して、ロンドン大学講師ハロルド・E・パーマーを日本に招聘。翌年、パーマーは文部省内に設立された英語教授研究所(現在の語学教育研究所)の理事長となった。

なお、1909年12月21日には貴族院議員に勅選され[7]茶話会に属し死去するまで在任した[8]

1926年(大正15年)4月、同月発足の太平洋問題調査会理事に就任[9]1927年(昭和2年)、国際会議出席のための外遊中に悪性の猩紅熱に罹患し、帰国後の同年12月24日に死去。享年62。遺体は解剖に処され、脳は東京大学医学部に保存されている。墓所は台東区谷中霊園
成城小学校設立による教育の実験的研究

沢柳政太郎は大正9年(1920年)の「小学教育学の建設」で次のように「教育の実験的研究の必要性」を述べている[10]

この学校は教育の実地的研究という使命を持って生まれたのである。

教育の改造を成し遂げるための実地研究をなすという目的を持って成立したものである。

私どもはささやかなる一私立校から、私どもの天分の許す限り、力のあらん限り努力して、必ず何ものかを小学教育の改造に寄与するつもりである。

そこで私は全国の教育者に対して、小学教育に関し研究を要する問題にして、法規上研究の自由を得られないものを、私どもに提示せられんことを望むのである。

私どもの研究するところは、すなわち小学教育の改造のためであり、全国の小学校に行われることを目途として努力している。

我が成城小学校は、小学教育の科学的研究のためにするという目的を持って生まれたのである。私は小学教育学は成城小学校の畑に種子がまかれ、芽を出し、生育せんことを望んでいる。しかし、どこで発生して生育してもよろしい。一日も速やかに小学教育の生まれ出でて健全なる発育を遂げんことを祈っている。

幾多の重要な問題が横たわっている。従来の教育学はそれらの実際問題・重要問題に触れずして過ぎ去った。

小学教育に関する数十数百の問題は、今日のところわずか常識的解釈を下すにとどまって、未だ一つも科学的研究を経たものが無いと言って良い。

教育学者で板倉聖宣と共に仮説実験授業を提唱し、実施、研究した庄司和晃は、この澤柳の宣言について、大正9年の論文であるが、時代がかった部分、古さびれた言はひとつもない。今なお、脈々として生き残っている活文字である。一日も早く古さびてほしいものだと思うが、そうでもないところをみると、それほどまでに(教育の)科学的研究が進んでいないということなのであろうか。

と述べている[11]
人物

モットーは「随時随所無不楽」(随時随所楽しまざる無し)。いつどんなときでも楽しみを見いだすことはできるの意。

文部官僚時代、
釈雲照に師事して十善戒を授けられ、仏教思想に深く傾倒していた。日常生活でも、を捕らえても縁側に逃がし、が頬を刺しても団扇で払うに留めるなど、不殺生戒を守り生活していた[12]

文部官僚時代は官立至上主義で、自らの著書『退耕録』で私立大学出身者を罵倒したり、明治時代末期には私立大学撲滅を訴えたりと、筋金入りの「私立学校嫌ひ」(河岡潮風の評)であった[6]。にもかかわらず、成城学校校長就任以降は、私学を積極的に奨励した。

酒を好まず、自ら禁酒運動の先頭に立つほどであった[13]。しかし、教育のためならば融通の利く側面もあり、1895年に当時教師と学生の衝突や学生の飲酒など校風が荒れていた群馬尋常中学校の校長に就任した際は、赴任早々校長自ら運動場に酒樽を持ち出して鏡を抜き、「さあ、思う存分飲め。その代わり、明日からしっかり勉強せよ」と柄杓をすすめて学生の度肝を抜き、以後騒動を収めたという[14]

食にも頓着せず、成城小学校校長時代には、購買部の列に児童と一緒に並び、パンを買って昼食を済ませるという具合だった。しかし、教育視察や国際会議出席のため外遊する際は別で、日本が欧米列強の中で地位向上に努めていた時代の中、日本の代表者として侮られることのないよう、必ず一流ホテルや最上級船室を利用するよう心掛けていた[15]

冷蔵庫の中にダイナマイトを入れているような男」と評されるほど、普段は冷静で穏やかだが、時に強い熱意や感情を表に出す人だった。文部官僚時代も、部下の失敗にも言い分を聞くのみで、滅多なことで叱責や処罰をしなかった。教科書検定に関連して、出版社の番頭が検定認可のために澤柳へ贈賄を図った際も、澤柳は「私にこんなものを持ってきても仕方ない」と静かに返した。


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