沢村栄治
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なお、夏の甲子園大会終了後に沢村は京都商業を中退しているが(現在の高校3年生に相当する年齢)、その理由は、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}野球部員による下級生への暴行事件が明るみに出て、連帯責任で甲子園出場が絶望的になったため[要出典]、あるいは、学生野球とプロ野球との対戦を禁じる野球統制令により、学生の身分では日米野球に参加できなかったためともされる[10]

選抜チームでは、法政大学OBの捕手・倉信雄が試しに沢村に3球全力投球させてみた際、低いと思ってミットを下に出すと、投球がホップして肩口の上を抜けていってしまい、全てパスボールしてしまう。さらに、最初のレギュラー・バッティングでは、二出川・苅田・水原山下・中島・久慈・三原・井野川伊達といった並み居る大学野球出身のスタープレーヤたちを9者連続三振に打ち取ったという[11]

大会では5試合に登板(4先発)する。11月10日の第5戦(神宮球場)では先発するも12安打を浴び0-10で敗れる[12]。しかし、11月20日の草薙球場で開催された第9戦で再び先発すると、6回まで2安打7三振の無失点に抑える。7回裏にルー・ゲーリッグにソロ本塁打を浴び0対1で敗れるが、メジャーリーグ選抜チームに対して8回で9三振を奪い、5安打1失点と好投した。試合後、全米の監督であったコニー・マックから「沢村をアメリカによこせ。18歳の彼を2,3年みっちりとファームで仕込んだらきっとメジャーで使える」と賞賛された[13]。さらにコニー・マックから渡米の打診も受けるが、沢村は「行ってみたいが、こわいわ」と語っていた[14]。また、この試合に随行していたスチュアート・ベルという記者は、すぐにアメリカへ向けて沢村のすごさを書き送ったことから、アメリカ中で沢村の名前は「スクールボーイ・サワムラ」として尊称されるようになったという[15]。もっとも、この試合でベーブ・ルースは、沢村を賞賛する一方で、「丁度バッターボックスに入って投手に面すると太陽の光源が真正面に見えるのでまぶしくて仕方がなかった」[16]とコメントしている。一方で、この試合のメジャーリーグ選抜の先発、アール・ホワイトヒル(英語版)は左腕であり球の出所が沢村と違うため参考程度にしかならないが、9回3安打完封だった。また、全米エースのレフティ・ゴメスは「沢村の球速変化のないカーブでは、どんなに鋭く曲がってもメジャーの打者には打たれる。直球の方がよい、あのスピードで浮いてくるとちょっと打てない。だからベーブはみなにカーブを狙わせた」と評している[17]

次に、11月28日の第16戦(京都市設球場)に先発するが、沢村の投球の癖(カーブを投げる際に口を歪める)が研究されていたこともあって8点を失ってノックアウトされる[18]。また、12月1日の最終第18戦でも先発するが、4回9失点と全く通用しなかった[19]。結局、沢村は草薙球場の第9戦以外の4試合では0勝3敗・防御率10.65(20回2/3で33失点・24自責点)と全く振るわず、通算でも0勝4敗・防御率7.85(28回2/3で34失点25自責点)に終わっている[20]。それでも、この年の日本選抜対メジャーリーグ選抜の試合が日本の0勝16敗に終わったこともあり、草薙球場での沢村の快投は現在でも日本で語り草となっている。
職業野球への参加

その年の暮れ、全日本チームを基礎とした職業野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(現在の読売ジャイアンツ)が結成される(正式な設立は12月26日)。早速、読売新聞社の正力松太郎から入団の勧誘を受ける。正力は「一生面倒をみる」とまで言ったという。沢村自身はのちに鈴木惣太郎に「わしは慶応が好きやで慶応に行くはずだったのや」と語っているように[21]、慶応への進学を希望していたが、裕福でない家庭の事情に配慮して「進学、職業野球、どちらでもよい」と返事をする。当初、父の賢二は慶応の腰本への恩義や野球を職業とすることの不安から入団に否定的であったが、次第に正力の熱意にほだされて職業野球入りを勧めるようになり、沢村の入団が決まった。職業野球に入って、中学出としては相当に高額の百数十円の給料をもらえることになったが、沢村は「とにかくこのお金で弟たちを上の学校にやってくれ」と手紙を添えて、給料の2/3以上を実家に送金する。これによって、沢村の実家は人並み以上の生活ができるようになった[15]

のちに、沢村は3度も召集を受けることになるが、これについて学歴が中学校中退であったからという説をとれば、中学校を中退しての職業野球入りは沢村のその後の運命を左右してしまったと言える。戦後のインタビューで、賢二は「栄治は中学校中退だから。もし、卒業していたら、慶大に行っていたら、こんなに何度も(召集が)こなかった。すべては私のせいです。」と涙ながらに繰り返した[22]
巨人の初代エース京都学園高等学校敷地内に建立されている沢村の像

1935年2月から7月にかけての大日本東京野球倶楽部(アメリカへの到着時に東京ジャイアンツに改名)の第一次アメリカ遠征に参加。当初は70試合程度を予定していたが、アメリカでの沢村の人気もあって、計画は109試合に拡大した[23]。当時AA(現在のAAA)パシフィックコーストリーグの8球団のほか、アメリカ・カナダメキシコハワイを回ってノンプロ・大学・在留邦人のチームと対戦。ジャイアンツはコーストリーグの8球団から挙げた7勝のうち、5勝は沢村の力投によるものであった[24]。そのほか、遠征全体で沢村は21勝8敗1分、313奪三振の戦績を残す。この遠征では、当時未だマイナー(サンフランシスコ・シールズ)にいたジョー・ディマジオとも対戦するが、三振を奪うどころか物凄い本塁打を打たれてしまったという[25]


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