沖縄社会大衆党(おきなわしゃかいたいしゅうとう、英: Okinawa Social Mass Party)は、日本の政党(政治団体[注 1])。略称は社大党(しゃだいとう)。
沖縄県の地域政党であるが、参議院にも1議席持ち、国政にも参画する。 社大党は1950年10月31日、沖縄群島知事の平良辰雄と兼次佐一らによって結成された。当初は比嘉秀平(後の行政主席)や西銘順治(後の沖縄県知事)などの保守系政治家も在籍しており、幅広い階層からの支持を受けていた。その後、比嘉秀平や西銘順治が相次いで離党(比嘉らは琉球民主党を結成した。のち同党は自由民主党に合流)したことで革新色を強めていき、沖縄人民党(後の日本共産党沖縄県委員会)とともに沖縄県祖国復帰協議会に加盟して沖縄本土復帰運動の中心に立っていった。しかし人民党との共闘については党内でも批判があり、度々路線対立が起きた。 1970年の国政参加選挙で、衆議院に安里積千代が当選し、国会に議席を得た。1972年の本土復帰を前に、日本社会党への合流が提案された(このとき、沖縄人民党は1973年に日本共産党に合流した)。当時の安里積千代委員長は党解散の上、各人それぞれが移籍先を選ぶべきだと主張した。安里は復帰後の1972年の総選挙に出馬し、当選すると民社党に移籍した。しかし結局、党自体はどちらにも合流せず沖縄地域政党として存続した。 県政においては、平良良松、親泊康晴(いずれも那覇市長を務めた)など、現役党員が首長となるケースが見られる。 綱領自体は「左右の全体主義を排する国民政党」など民社党に近いものだったが、政策・活動は革新色が強くなる。選挙で民社党は自民党と選挙協力が多く、両党は間接的ではあるがしばしば対決することになった。 2020年より参議院議員の高良鉄美が委員長(第13代)を務め、沖縄県議会や那覇市議会に議席を有し、沖縄の革新勢力をまとめる存在として根強い影響力を持っている。 社大党は1950年10月31日に沖縄県で結成された[1]。初代委員長は同年9月の知事選挙で当選した平良辰雄であり[8]、結党宣言で「政治は民衆のためのものであり、民衆のものであるということの自覚と責任」、「ヒューマニズムを基底とした国民政党」、「大衆の力を結集しての新琉球建設」の三点を強調した[9]。社大党は「祖国復帰」を最大の目標に掲げており、1951年に常任委員会で日本復帰署名運動を行うことを決定し、臨時党大会で「日本復帰への願望」を発表[9]。沖縄の日本復帰実現のために以下の要望書を日本政府や合衆国政府、衆参両院の議長、各政党へ提出した[10]。 一、琉球を可及的速かに日本に復帰させること。 二、教育制度は日本に直結して内国なみに取扱ふこと。 三、日本に復帰する期間次の処置を構じて貰いたい。1.琉球住民は日本の国籍を有し日琉間の往来居住の自由を認めること。2.琉球政府は自治統合政府一本建てとすること。3.法規は全面的に日本の現行法を準用せしめること。4.米国の琉球 に対する経済援助を今後も継続すること。5.日琉間の通商交易については内国待遇をすること。6.海外移植民及遠洋漁業については日本人として取扱ひ日米両国に於いて保護援助すること。 ? 社大党書記長 兼次佐一、[10] 1968年1月、アメリカ合衆国のジョンソン大統領は沖縄の行政主席の公選を認め、同年11月の立法院議員選挙と同時に主席公選を実施することとなった。社大党は沖縄社会党、沖縄人民党ら三党で役員会議を開き、革新政党の共闘にむけて意見が一致した[11]。彼らは教職員会や県労協などとともに「明るい沖縄をつくる会」、いわゆる「革新共闘会議」を結成し[12]、革新統一候補として沖縄教職員会の会長の屋良朝苗を決定、同年6月に7つからなる統一綱領を発布した[13]。11月10日に投票が行われ、屋良朝苗が保守派の候補者に圧勝した[14]。 1972年の沖縄返還によって沖縄は日本への復帰を果たした。社大党は、他の沖縄の政党、例えば沖縄人民党が日本共産党に合流したように、中央政党、特に日本社会党に加わるものとみられたが[15]、解党か存続か社会党への移行かで様々な議論が交わされた結果[16]、沖縄の地場政党として活動することとなった[15]。この議論の中で、委員長だった安里積千代は日本復帰と共に解党することを提案し、中央執行委員会は日本への復帰は社大党にとってゴールではなく新たな旅立ちの日であるとして党の存続を決定した[17]。 同年に行われた県議会選挙で社大党は候補者全員が当選して議席を7から12に増やすなど躍進を遂げ、沖縄タイムスは「大衆闘争が低迷する中で、土着政党としての社大党の役割を期待する」と評した[18]。1976年に行われた県議会選挙では得票率を4.7%減らして10議席となり、党勢に下降傾向が見え始めた[19]。1980年の県議会選挙ではさらに得票率を減らして当時の書記長までもが落選した。琉球新報は一面に「社大、重大な危機に」と記し、社大党は存続問題に及ぶ事態に陥った[20]。
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歴史
復帰後
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