沖縄戦
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日本軍の目的は、大本営(主に日本海軍軍令部[32]特別攻撃隊を主力とする航空攻撃により連合国軍に大打撃を与えて、有利な条件で講和を結ぼうという『一撃講和』を目指していたのに対し[33]、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦[注釈 2] に向けた持久戦を意図するという不統一な状況であった[33]。第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦(縦深防御)を基本方針として戦い、特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となった。海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦大和」などの日本海軍残存艦隊による「沖縄特攻」も行われた。

1945年(昭和20年)5月末に第32軍の首里司令部は陥落し、日本軍は南部に撤退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、6月23日には牛島満司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、連合国軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは9月7日である。

陸海空において両陣営の大兵力が投入された。連合国軍のアメリカ軍側の最高指揮官であった第10軍司令官バックナー中将日本陸軍の攻撃で戦死するなど、フィリピンの戦い硫黄島の戦いと並び太平洋戦域のみならず第二次世界大戦における最激戦地のひとつとなった。使用された銃弾砲弾の数は、連合国軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された[34]地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため「鉄の暴風(: Typhoon of Steel)」等と表現される[注釈 3]。残された不発弾は、70年を経た2015年平成27年)でも23トンにものぼり、陸上自衛隊などによる処理が続く。1トン爆弾も本土復帰の1972年(昭和47年)以降だけでも6件見つかっている。

沖縄での両軍および民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる[35]。その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である[36][37]。日本側の負傷者数は不明。戦前の沖縄県の人口は約49万人であり、実に沖縄県民の約4人に1人が亡くなったことになる。アメリカ軍側は死者・行方不明者20,195人[38][注釈 4]となったが、これは1944年12月に戦われた、西部戦線最大の激戦の1つであるバルジの戦いの戦死者最大約19,000人[注釈 5]を上回るものであり[40]、戦傷者は最大で55,162人[41]、戦闘外傷病者26,211人[19]を加えた人的損失は実に投入兵力の39%という高水準に達したため[42]ハリー・S・トルーマン大統領らアメリカの戦争指導者たちは大きな衝撃を受けて、のちの日本本土侵攻作戦「ダウンフォール作戦」の方針決定に大きな影響を及ぼした[43]。 イギリス軍は死者85人であった[27]。(日本側被害の詳細は#住民犠牲についてを参照)

北海道占守郡における「占守島の戦い」や樺太庁全域における「樺太の戦い」、また東京都硫黄島村(現小笠原村)の硫黄島に於ける「硫黄島の戦い」などと並び太平洋戦争末期の日本領土における主要な地上戦のひとつであり、2010年(平成22年)に日本政府は国会質問への答弁書をつくる際、「経験を風化させることなく、次の世代に継承することが重要であると認識している。」と回答している[44]
背景
日本軍の戦略作戦会議を行う第32軍司令部。一番左が司令官の牛島、中央で指揮棒を持って説明しているのが参謀長の長

1944年(昭和19年)に入りトラック島空襲など連合国軍の太平洋正面での反攻が本格化してくると、マリアナ諸島などを前線とする絶対国防圏での決戦を構想していた当時の日本軍は、後方拠点として南西諸島の防備に着手した[45]。1944年2月に日本陸軍は沖縄防衛を担当する第32軍を編成、司令官には渡辺正夫中将が任命された。もっとも、この時点での第32軍の主任務は飛行場建設であり、奇襲に備えた警備程度の兵力であった[45]。同年4月には、海軍も沖縄方面根拠地隊を置いたが、その司令官は九州・沖縄間のシーレーン防衛を任務とする第4海上護衛隊司令官を兼務し、防衛戦力というより後方組織としての性格が強かった。沖縄に配置となった第24師団歩兵第22連隊の満州での出陣式

日本軍が本格的に沖縄地上戦の準備に取り組んだきっかけは、1944年7月にアメリカ軍の攻撃を受け絶対国防圏の要であるサイパン島が陥落したことであった。大本営は、捷二号作戦を立案して沖縄周辺海上での航空決戦を企図するとともに、陸上の第32軍の増強にも着手した[46]、1944年7月に第32軍の参謀長に就任した 長勇少将は、早速大本営参謀本部に乗り込むと「沖縄本島には5個師団を増強せよ!吾輩の意見を採用せず、ために沖縄が玉砕するようになれば、参謀本部は全員腹を斬れ」と怪気炎を上げている。参謀本部も長の要求に応えるかのように1944年7月に沖縄本島に第9師団、7月末に宮古島第28師団、8月に第24師団第62師団を増派、諸砲兵部隊を統括する第5砲兵司令部も配置、その司令官には砲兵の権威だった和田孝助中将が充てられるなど、沖縄本島を中心とする南西諸島には4個師団、混成5個旅団、1個砲兵団の合計18万人の大兵力が配置されることとなった[47]。その中で増援の独立混成第44旅団が乗った軍隊輸送船富山丸」がアメリカ軍潜水艦に撃沈され、4,000人近くが死亡、到達したのは約600人という、先行きを不安視させる事件も起きている。

戦力増強が進む中で司令官の渡辺は疲労により持病の胃下垂が悪化、病床につくこととなってしまった。渡辺の希望により病状は中央に伏せられていたが、病状が一向に回復しなかったため、長らはやむなく軍中央に渡辺の病状を報告し、1944年8月11日に陸軍士官学校の校長であった牛島満中将が新たな第32軍司令官として着任した[48]。牛島は同郷(鹿児島県)の偉人西郷隆盛に例えられるような[49] 泰然自若とした父親のような人物であり、部下将兵からは尊敬されていた。陸軍士官学校や陸軍公主嶺学校などの校長を歴任した教育畑の経歴ながら、歩兵第36旅団旅団長として日中戦争では武功を重ねており[50]、アメリカ軍からは「牛島将軍は、物静かな、極めて有能な人で、全将兵が心服していた。


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