沖縄戦
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沖縄県民の犠牲者15万人とする場合もあるが、これは沖縄県出身軍人(上記B)や地上戦域外での餓死者・病死者、疎開船の撃沈による被害なども含めた数値である[35]。なお、沖縄県平和祈念公園に設置された石碑の「平和の礎」には、1931年(昭和6年)の満州事変以降・南西諸島の日本軍の降伏調印1年程度経過の1946年(昭和21年)9月7日頃までに発生した戦争が主因の沖縄県出身者の死者と、1944年(昭和19年)3月22日の第32軍創設から1946年(昭和21年)9月7日頃までのアメリカ軍将兵などを含む県外出身の死者の名が記載されており、2006年(平成18年)6月23日時点で24万383人(うち沖縄県出身者14万9035人)となっている[374]。この「平和の礎」の数値を根拠に、沖縄戦の戦没者数を24万人と主張する者もある[375]

また、日本側死亡者のうちに朝鮮半島出身の土木作業員や慰安婦など1万人以上が統計から漏れているとの見方もある[35]
アメリカ軍上陸前の住民の動き(避難)
県外疎開

大本営が沖縄県民59万人の住民疎開、避難について検討を始めたのは、サイパン島にアメリカ軍が来攻した1944年6月のことである。7月1日に、研究要員として後に第32軍参謀長となる長勇少将(1945年3月に中将)が現地入りした。7月7日にサイパン島が陥落すると、東條英機内閣は緊急閣議を開き「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断した。沖縄本島・宮古・石垣・奄美・徳之島の5島から、老幼婦女子と学童を本土および台湾へ疎開させることが決定され、沖縄県に通達された[376]。その後の通達で疎開目標は本土へ8万人と台湾疎開へ2万人の計10万人と決定された。対象者は、県内に29万人いた60歳以上と15歳未満の者、その看護者である婦女のみが許可され、警察署長の渡航証明書を受けることとされた(県外転出実施要綱)。また、学童集団疎開については、原則として国民学校3年生?6年生を対象とし、1、2年生は付き添い不要の者に限られている[172]

手段は沖縄に兵士や軍需物資を輸送する軍用輸送船の帰路を利用して、本土や台湾に疎開させようというものであったが、費用は全額国庫負担で行うことになり、大蔵省第2予備金から1500万円を拠出する予算措置が取られた[376]。一般住民の疎開は法的には強制力が無く、県を通じた行政指導による形式であった[377]。県民が疎開に応じるか不安視した県は、短期間で徹底して遂行するにはある種の威令や組織力・機動力が必要と考え、一般疎開を本来の社事兵事を司る内政部ではなく警察部に担当させることに決定した。一方、学童疎開は沖縄県庁内政部教学課を主担当として、各市町村、各国民学校長、部落会、隣保班を通じて推進された[378]学童疎開船対馬丸を撃沈したアメリカ軍潜水艦ボーフィン

しかし、県民の疎開機運は一向に盛り上がらなかった。理由としては、県民の一家の大黒柱を欠いた状態で身寄りのない本土や台湾に疎開することの不安や、船舶に頼らざるを得ない県外疎開そのものへの不安があったとされる。しかし、荒井退造沖縄県警察部警務部長を始めとする県の必死の努力により、疎開第1船である「天草丸」は7月21日に警察官、県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出港した。続く7月末の疎開第2船での220人、8月初めの第3船での1566人はほとんどが本土に縁故のある人々であった(本土出身者の引き揚げが多くを占めた[379])ものの、その後8月10日に出航した第4次の約9,000人は縁故のない県民が中心となり、ようやく県の努力が実りつつあったが、1944年8月22日の学童疎開船「対馬丸」撃沈事件(約1500人死亡)でまた沖縄県民に不安が広がった[377]。そのため、疎開希望者の間で辞退する者が続出し、出発日に疎開者が集まらず、疎開船が空船のままで出航することもあるなど、疎開業務が一時頓挫することとなった[378]

さらには、前任の第32軍司令官渡辺中将がやや神経質な性格で、沖縄県民への講演会などで危機感を煽りすぎて、かえって恐怖心を起こさせたのに対し、1944年8月に着任した後任の牛島の落ち着いた風格が、沖縄県民に安心感と軍に対する信頼を高めたことや[380]、続々到着する増援の大軍を見た沖縄県民の間に、日本軍の勝利という希望的観測が広まっていたことも疎開が進まない大きな要因となった。末端将兵の放言もその希望的観測を強めており、そのため、住民疎開を主導していた荒井が第32軍に「軍隊が戦いに勝つ勝つと宣伝するので、住民が動かないので困る。何卒駐屯の将兵は、景気のいい言葉を慎み、疎開に協力して貰いたい」と陳情している[381]。その後、皮肉なことに県民の疎開を一挙に促進させたのはアメリカ軍による1944年10月10日の5次に渡る大空襲(十・十空襲)であった[382]

県外疎開は1944年7月から海上交通が途絶する翌年3月上旬まで続き、海軍艦艇を含む延べ187隻の疎開船により学童疎開5,586人を含む約80,000人が疎開した。内訳は、九州へは沖縄本島から約65,000人[382]、台湾へは沖縄本島から3,000人以上、先島諸島から9,000人以上の約12,500人となっている[383] (「台湾疎開」も参照)。3月上旬までの県外疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは「対馬丸」(約1500人死亡)一隻のみであるとされているが[382]、宮城博は沖縄県の独自調査で一般疎開者が乗船して航行中に撃沈された船舶が32隻と報告されたとしている[注釈 27]

九州に事前疎開できた沖縄県民については、沖縄県庁の機能停止後、1945年7月に福岡沖縄県事務所が正式発足して支援業務を引き継いでいる。
本島北部への避難(島内避難)

1944年10月10日の十・十空襲による沖縄県民の被害は大きく、那覇の市街地の90%が焼失したほか、県民の1か月分の食糧も焼失、生活必要物資がひっ迫し県民の生活は困窮した。当時、沖縄を管轄していた熊本財務局は、空襲被害による那覇市民の窮状を考慮して、空襲被害のあった地域の租税徴収を2年間免除するという特例を講じた[385]。また、1942年2月24日に施行された『戦時災害保護法』を適用し、那覇市民の罹災者救援のために現金給付を行ったが、アメリカ軍により日本本土から沖縄への海上輸送路は脅かされている状況で、現金で購入できる物資にも事欠いており、実質的な効果は薄かった[386]

沖縄県の経済情勢が急速に悪化する中、1944年12月に軍中央より『皇土警備要領』が示達された。これは台湾と南西諸島を最前線と位置付けて、住民を戦力化できるものとできないものに選別し、戦力化できるものは戦闘や後方支援や食糧生産で軍に協力させ、戦力化できない老若婦女子はあらかじめ退避させるというものであったが[387]、第32軍の高級参謀八原はこれでは不足と考え、より具体化した「南西諸島警備要領」を作成した[388]
およそ戦闘能力、もしくは作業力のある者はあげて戦闘準備および戦闘に参加する。

60歳以上の老人、国民学校以下の児童、ならびにこれを世話するに必要な女子は、昭和20年3月までに、戦闘の予期せざる島の北半部に疎開させる。

各部隊は所属自動車、その他の車輌、並びに所属舟艇を以て極力右疎開を援助する。

爾余の住民中、直接戦闘に参加せざる者は、依然戦闘準備作業、農耕その他生業に従事し、戦闘開始直前急速に島の北半部に疎開させる。

県知事は島の北半部に、疎開民のための食糧や居住施設を準備する。

この要領を作成した八原には「サイパンの二の舞は厳に慎むべき、アメリカは文明国でよもや非戦闘民を虐殺することはないはず。主戦場となる島の南部に非戦闘民をとどめておけば、剣電弾雨のなかを彷徨する惨状になる」という考えがあったが[389][390]、この要領により、17歳?45歳までの青壮男子が根こそぎ防衛召集され戦力化され、中学生や沖縄師範学校の生徒、高等女学校生徒らも、疎開することを禁止され[391]、通信兵や看護婦として軍に協力させられて『鉄血勤皇隊』や『ひめゆり学徒隊』などに組み入れられた[392]

1945年1月31日に島田叡新沖縄県知事が着任したが、第32軍参謀長の長と島田は上海事変のときからの旧知の仲であった[393]。長は泉守紀前知事のときの不遜な態度とはうって変わり島田には礼を尽くし、島田の着任早々に情報主任薬丸参謀を連れて自ら沖縄県庁を訪ねた。そこで長は島田に「ウルシー島を進撃した米機動部隊は、沖縄方面に向かっている。一週間後の、2月25日頃には、沖縄までやってくる」と詳細な軍事情勢を伝え「米軍が沖縄に上陸して、約6か月間は何としてでも頑張る。そのうち米軍はへとへとになって引き揚げるだろう。その間の住民の食糧6か月分を、県において確保してほしい」と要請した[394]。長の要請を受けた島田は、着任早々にも関わらず非常な熱意で食糧確保に奔走し[395]、2月には危険を冒して台湾に飛んで、台湾米を10万袋確保することに成功した。


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