汪兆銘
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

注釈^ 戦前・戦中期の日本でも、「汪精衛」の呼称を使用する例は決して少なくなかった。東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社(昭和16年)や『写真週報』などの出版物、さらに週間ニュース映画「日本ニュース」などでも「汪精衛」と表記している。
^ 朱執信は、孫文の忠実な協力者で、朱執信の父親が汪兆銘の従姉妹を妻としていた。1920年死去。死後、朱の名を冠した朱執信学校が広東に設立され、汪兆銘の長女汪文惺やその夫何文傑はここで学んだ[9]
^ 同盟会は庶務部(部長は黄興)・司法部(部長は張継)・評議部(部長は汪兆銘)に分かれていた。各部は、それぞれ行政・司法・立法の三権に対応していた。
^ 「精衛」は、海で溺死した夏の炎帝の娘の化身とされた伝説上の小鳥。怨み深き海がいつか埋め尽くされることを夢見て、小石を嘴にくわえて飽きることなく海に運び落としたとされる。汪は、みずから革命の礎石、さらには捨て石たらんとして、この号を名乗った[13]
^ 陳璧君と汪兆銘が知り合ったのは、汪が孫文にしたがって革命資金を集めるべくペナン島に講演旅行をしたときであった[15]
^ この宣言書における「文明国の尽くすべき義務を尽くして、文明国の享受すべき権利を享受する」の文言は、法政の山田三良が常日頃学生に話していたことからおおいに影響を受けたという[19]
^ 革命軍将校の土地を除いて土地革命を遂行しせよ。信頼できない将校を一掃し、2万人の共産党員を武装し、5万人の労農分子を選抜して新しい軍隊を組織せよ。国民党中央委員会を改造し、古い委員を労農分子に交代させよ。著名な国民党員を長とする革命法廷を組織して反動的な将校を裁判にかけよ、というのがコミンテルンからの訓令であった[40]
^ 広田の和協外交は、列強の勢力を中国から排除する指向をもっていたと同時に、陸軍の中国政策に単純に追随するものではなく、政府による外交の自主性を保持しようというものであった[55]
^ 日本人による東亜連盟運動の嚆矢は石原完爾の信奉者たちであり、中国人では繆斌をそのさきがけとしている[29]。北平新民会を脱会した繆斌が1940年5月に北平で中国東亜連盟協会、林汝?が1940年9月に広東で中華東亜連盟協会、周学昌が1940年11月に南京で東亜連盟中国同志会をそれぞれ結成した[29]。しかし、1941年1月14日、日本政府が日本国内の東亜連盟の解散を閣議決定し、日本側の活動は停滞を余儀なくされ、中国側もその影響を受けたが、一方で日本側の草の根の同調者が真剣であることが中国側の運動者に理解されたのであった[29]
^ 『橙新聞』によれば、この珍現象の原因は、一部の教科書が誤って三船の写真を汪兆銘の写真として用いていたためであり、汪兆銘の顔は多くの人が知っているので、すぐに誤認であることは判明したが、実際にはだれなのかがよくわからないので、ワイルドカード(同時代の人物を紹介するときに、その人物の写真が見つからなければ、とりあえず載せるような写真)として用いられ、さらに混乱が生じたという[103]
^ 1983年(昭和58年)、汪文彬は医学研修のために名古屋を訪れ、2月28日付『中日新聞』はこれを「汪兆銘氏の二女・文彬さん、39年ぶり旧交温める」と報じている[109]
^ 日本側も、汪兆銘政権成立後も交渉相手として?介石政権に未練をもっており、汪政権承認が遅くなってしまったことは、中国における汪兆銘政権の求心力を低下させてしまったし、撤兵や租界の返還も日本が劣勢になってからのことなので、「大東亜共栄圏」の構想も説得力をもたなかった[126]。これが、早期になされ、具体的な協議に入っていれば、汪政権側にも多彩な人士が集まり、「大東亜共栄圏」も説得力を持ちえたと思われる[126]

出典^ a b c d e f g h i j k l m n o p 里井(1975)p.155
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak コトバンク「汪兆銘」

次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:352 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef